東海の城 一覧表|日本全国お城情報

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東海 城リスト

山中城(静岡県三島市山中新田)
1.戦国時代、箱根山塊は一大要塞地帯であった。北条氏は早雲以来一世紀間、五代にわたって東国に君臨、その本城は小田原にあった。だから背後を固める上でも、当城のほか足柄城、鷹ノ巣城、湯坂城、浜居場城、塔之峰城、進士城など、箱根山塊を形づくる山々の山頂に支城網をめぐらした。

山中城は箱根外輪山の西側、海抜585メートルにあり、駿河湾、富士山、御殿場の裾野が一望できる。城内にはのちの東海道箱根越えの関門関所があった。北条氏領国の伊豆、駿東地区と、小田原を結ぶ中継地点でもあったわけだ。築城は大森氏時代、室町中頃に遡る可能性があるが、本格的な戦国山城になるのは武田信玄に術えた、水禄の末頃からである。

その後も強化普詰が繰り返され、天正16年(1588)からは、豊臣秀吉の来襲を予測して、堀障子や畝堀という特殊な施設をもたせる改修にあたる。州障子は窄珈底に障子の桟のように畝を残し、畝堀は空珈の竪方向に畝を残して、共に空堀底を方形に連続してV字に掘り込む堀である。方形V字の空堀の穴は嶬地獄を呈するのだ。


代々の城主は譜代・親藩大名浜松城
静岡県浜松市元城町100-2
築城者: 徳川家康
遺構: 天守曲輪、石垣

戦国時代の元亀元年(1570)、徳川家康は三方ケ原台地東南の地にある曳馬城跡を中心として、浜松城を築城しました。

東海道の要地を押さえる徳川家康ゆかりの城であった浜松城。江戸時代においては城主の交替が目まぐるしいが、大名の多くが幕閣に入るなど出世城の異名をもっています。 典型的な平山城として、西北の高所に天守曲輪、その東側に本丸・二の丸を配し、東南に三の丸がありました。天守曲輪は広大なものではありませんでしたが、不等辺四角形の天守台が置かれていました。

元亀3年家康は武田軍の誘い出しに乗り三方ヶ原に出陣しましたが大敗。命からがら逃げ込んだのがこの浜松城です。しかし、武田軍がこの城を攻撃しなかったことをみると、城は当時から堅固な造りになっていたようです。

家康は、浜松城を本拠として領土を拡大、織田信長に従って各地で戦うとともに、城の修築を数回行い、城下町の整備にも努めました。徳川幕府における幕藩体制確立後は、城主の交替も激しく、徳川譜代大名で占められます。浜松城主から幕閻の要職に就く者が多く、「出世城」とまで呼ばれていました。

浜松城の石垣は、見るからに荒々しそうで、一見崩れやすそうに見えます。これは「野面積み」という積み方で、戦国時代の石垣の積み方です。粗削りの自然石を組み合わせて、乱積みにしたものです。石の表面には隙間が見えますが、奥は深くて堅固です。特に天守台と天守門付近の石垣が大きくて立派に見えます。
天守曲輪にある巨大な天守台に、昭和33年になって三層の天守が建てられました。

浜松城は、徳川家康が岡崎城より遠江進出を果たした年の翌年の元岻2年(1571)に、この地にあった曳馬城を大改修して築いた。家康が駿府へ、さらに江戸へ移ったのち、城主はめまぐるしく交代し、譜代大名でも老中や幕閣をつとめる大名家が相次いで入城した。

主な城主を見ると、豊臣大名の堀尾忠氏が川雲へ移封後に桜井松平忠加が入部、続いて水野重央、高力忠房、大給松平乗寿などの譜代大名たちが数年ごとに入れかわり、弘化2年、井上正春が館林城より入部して、井上氏が明治に至った。まさに「神君ゆかりの出世城」として世に知れ渡ったのである。
今日、市役所や学校敷地と化した本丸、二の丸地区の西側に、天守のあった天守曲輪が残る。

家康時代はこの曲輪に天守が実在していたが、近世には存在していなかった。石垣だけは家康構築の天正年間のものだが、今ある天守は昭和33年に新築されたコンクリート製の模擬建物である。模擬天守は天守台の形状、位置も無視する建物だ。

ただ天守曲輪の石垣だけは、古風で戦国時代の技術そのままが残る野面積み石垣だ。


吉田城(愛知県豊橋市今橋町)
2.豊橋市は吉田城の城下町として生まれた。城は、市の中心街を貫流する豊川に朝倉川が合流する地点に、永正2年、牧野成時(占向)が築いた戦国時代にはたびたび戦場となり、今川勢と安祥の松平勢との争奪に巻き込まれたり、戸田憲光の攻撃などが相次いだ。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦後には徳川家康の持城となり、遠江進出の前線基地としての原形ができ上がっていった。

天正18年(1590)、家康は関東移封となり、古川城には池田輝政が12万5000石で入部した。輝政は入城後、吉田城の改修と城下町経営に力を注いだ。吉川城の惣描を含め尾張の大部分は、輝政によったのである。

その輝政は関が原合戦の戦功により姫路城主となり、吉田城には松平家清が入城する。寛永9年(1632)には水野忠清が入城、その後、小笠原忠知、久世重之、牧野成舂、大河内松平信祝など、江戸時代には激しく城主が入れかわった。この間、松平忠利の時代に名古屋築城時の残石を譲り受け、従来、土塁づくりであった塁壁を石垣に改めた。



苗木城(岐阜県中津川市苗木)
3.苗木城を訪れた人は、自然石を巧みに生かした城描、大櫓のあった石垣などが放つ厳めしい景観の中、古城らしい魅力に取りつかれてしまう。木曾川に臨む本丸の景観も、多くの古城ファンを魅了してやまない。

苗木城は、岩村城の支城として、遠山景村が南北朝争乱期に築いたことに始まる。高森城ともいい、伝説から赤壁城、あるいは霧ヶ城(岩村城)に対し霞ヶ城ともいわれる。戦国期になると城はしだいに整備され、遠山直廉の代に武田・織田両勢力の接点として、しばしば合戦の舞台となった。直廉は織田方に方に屈し、信長の妹を要っていた。その嗣子友勝も信長に属した。

東氏の館(岐阜県郡上市大和町牧宇志ノ脇)
近年、室町期から戦国期にかけて存続した城舘跡の見方に、大きなウエイトを占めるようになった遺椛がある。室町武家文化がもたらした庭園遺構である。

武家文化の中で作庭が流行したきっかけは、足利義満の北山第(金閣に代衣)、同義政の東山第(銀閣に代衣)であるが、その始まりは足利尊氏・義直の夢窓国師への帰依による。臨済禅の京五山の頂点に立つ国師は、天龍寺・西芳寺の作庭のように絵解きとしての庭園をつくった。

小さな空間に蓬莱・神仙の世界を石や砂や池泉で表現した小宇宙をつくり絵解きのキャンバスとした手法は、悟の世界、あの世を見たいという武士たちの心を捉え、都に屋敷を強制的に構えさせられていた守護と呼ばれた有力武家にまたたく間に流行、都の守護たちの舘に蓬莱思想に基づく作庭が次々となされた。

応仁・文明の乱で守護たちは、それまでは赴くことのなかった、守護に補任されていた任国に赴くようになり、屋敷の作庭が地方にもたらされた。

山口の大内氏舘、一乗谷朝倉氏舘、飛騨江馬氏舘、伊勢の北畠国司舘の各庭園遺構がこれである。


城下町を見下ろす郡上八幡城
岐阜県郡上郡八幡町柳町一の平
築城者: 遠藤盛数
遺構: 天守台、石垣

海抜350mの山城であり、山頂には盆踊りであまりにも有名な八幡町を一望できる天守がそびえ建つ。しかし、明治前まで実在していた城には天守がなかった。

郡上八幡城は、戦国時代の永禄2年(1559)に織田信長の家臣遠藤盛数が、吉田川と小駄良川の合流点にある八幡山に築いた城に始まります。盛数は、鎌倉時代から12代340年間にわたって郡上地方に勢力を張っていた東氏を滅ぼして入国、築城したのでした。

盛数の子慶隆の時代の天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで、慶隆力識田信雄に通じていた疑いで転封され、代わって稲葉貞通が入城しました。しかし関ヶ原合戦で西軍に属したため転封、前城主の遠藤慶隆が再入国します。

慶隆は、3年がかりで外曲輪の石垣や堀、二層を整備し、山上に本丸を設けて近世城郭を完成させました。明治維新で建物は破壊されてしまいましたが、昭和8年に模擬天守・隅櫓・高塀が建てられました。城に立って吉田川沿いの城下町を見下ろしますと、町並がまるで絵葉書のような美しさに見えます。

なお、有名な郡上踊りは、遠藤盛数が城主のときに、士農工商の和をはかるために催したものといわれ、300年の伝統を誇っています。城下町を歩きますと、いたるところに瓦屋根が目立ち、伝統の紬があり、せせらぎが流れ、名水の宗祇水や山岳信仰の神社などの名跡に出会えます。小京都的な、のどかな城下町といえます。


郡上八幡城は、吉田川と小駄良川に挟まれた海抜350メートルの山上を中心とした山城である。

今日見る天守や櫓などは、戦前の城ブームの時代(大坂城の復興天守ができた頃)に大畑城天守の外容をまねてつくった模擬建築である。八幡山山頂に城を築いたのは、鎌倉以来、地頭職にあった東氏庶流の遠藤盛数で、戦国の風雲急を告げる中で着工した。

郡上郡は東氏が戦国期まで、阿千葉城・篠脇城・赤谷山城・東殿山城などに本拠を構えて支配していた。遠藤氏が下剋上の世の習い、主家の東常堯を東殿山城に滅ぼしたのは永禄2年のことである。


関ヶ原合戦の舞台大垣城
岐阜県大垣市郭町2丁目52
築城者:一柳直末
遺構: 天守台、石垣

大垣城の築城年と創設者については、戦国時代の明応9年(1500)の竹腰尚綱説と、天文4年(1535)の宮川安定説とがあります。牛屋川を外堀に利用して、本丸と二の丸の小規模な構えで、牛屋城と呼ばれていたといいます。

天正13年(1585)、豊臣秀吉は一柳直末を城主として天守の造営を命じました。四層四階建て総塗篭様式の工事は同16年になって完成しています。以来、400年もの間、この天守は、たいへん優美な城として名高く、歴史のうえからも貴重な城でした。

慶長5年(1600)、天下分け目といわれた関ケ原合戦がありましたが、決戦前夜まで、西軍の将石田三成は大垣城を本拠としていました。 関ヶ原合戦の前夜、石田三成が入ったことで知られる大垣城。三成は東軍徳川勢に対し、いち早く大垣城を占領し籠城の構えを見せた。慶長5年(1600年)9月14日、西軍は関ヶ原へ軍を進め、翌15日、主戦場は大垣から関ヶ原へと移り合戦が繰り広げられた。大垣城でも守城兵と包囲軍との戦闘が繰り広げられ、主戦場同様、徳川軍の勝利となり開城された。

昭和11年には天守・隅櫓が国宝に指定され郷土博物館として親しまれてきましたが、昭和20年7月29日の戦災で惜しくも焼失しています。

その後、大垣城再建の気運が高まり、昭和33年5月に着工、翌34年4月に外観を昔のままの容姿で完成したのが現在の天守です。昭和60年には、天守の周辺に多聞櫓・艮隅櫓などが復元されました。
大垣はかつて地下水にも恵まれ、各家の敷地に豊かな清水がこんこんと湧き出ていました。

城下町大垣の中央を水門川が流れ、「水の都」と呼ばれるにふさわしい風情があります。しかし水に恵まれていた反面、しばしば揖斐川の洪水の被害を受けてきた歴史もあります。


大垣とは「大きな垣根」の意味である。大垣の隣に関ヶ原があり、ここにあった関塞が、関東と関西を区分する分け目になっていた。つまり大垣とは東国と西岡を別する垣根の関門のことなのである。

大垣城は、天下を決定させた関ヶ原合戦の主舞台であった。西軍の石川三成はいち早くこの大垣が、主戦場になることを予測、大垣城を占拠し、東軍来襲を待ち受けた。有名な「おあむ物語」は、龍城した石川方の山川去暦の娘が徳川方の夜襲のありさまなどを生々しく語った記録文学である。

この関ヶ原合戦の様子を詳細に棚いた「関ヶ原合戦図屏風」がある。この屏風絵に大垣城の様子が克明に描かれ、天守もはっきりと認められる。この天守は、伊藤祐盛が天正18年(1590)に入城して築き、池田氏時代に改修されたものである、と考えられている。この時の天守は4層4階である。しかしこの天守は昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまう。


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