武田信玄は文学から兵法書を読破して家臣を大切にした

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武田信玄名言集(甲陽軍鑑)

人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 讐は敵なり
武田信玄(甲陽軍鑑)

1.甲府市にある武田信玄の居城・躑躅ヶ崎館はまこと小さい。東西284メートル、南北194メートルの規模しかなく、周囲に高さ3メートルの土塁がめぐり、一重の堀があるだけである。

「甲陽軍鑑」に、家老衆が寄り集まって、城があまりに小さく、粗末すぎると意見したことが記される。これに信玄は「その意見はもっともだが、国持ちが城に龍って運を聞いたことは稀であろう」と述べたという。

そして信玄は自分のかねてからの考えを披露する。主君を持つ侍が、援軍を頼んで、かなり堅牢な地に城を築くことは重要である。

しかし甲斐・信濃などを支配して、大きな城にたくさん龍れるほどの軍勢を持っているなら、むしろ国境に出て戦い、勝利するのが当然である。大将たる者は、兵を崇敬して法度を定め、軍をすることを朝夕の仕事と心得て、自分一人でひそかに作戦を練ることの方が、はるかに大切である。

大将のこうした行いが、侍たち大勢の働きに匹敵すると述べた。この信玄の思いを最もよく物語るのが、冒頭に掲げた「信玄公御歌」とされるものである。城をわざわざ築く必要はなく、人の和こそが城なのだ。人はその和が石垣ともなり、堀ともなる。情けをもって接すれば、人は味方になってくれる。しかし逆に冷たくあしらえば、敵になってしまう。

領国経営の基本を指し示す歌といえる。この信玄の歌と同じ趣旨で築かれた城に、薩摩の島津家久が造った鹿児島城(別名・鶴丸城)がある。天守閣はなく館形式で、小規模な石垣と水堀がめぐるだけ。代わって藩内百十三郷の士族による麓制度を作った。各地に散った士族が、石垣となり堀となって、鹿児島に入ろうとする敵を駆逐する体制である。

ただし『名将言行録』には、信玄の歌とされる「人は石垣人は堀」の歌が、古歌として伊達政宗の逸話のなかに出てくる。

政宗も「城を築くより、境界まで出て戦うべきで、情勢が悪ければ、領内で決戦して、負ければ討ち死にするまでだ。寵城しでも餓死を待つだけである」といい、こうしたなかで家臣の大切さを語り、「人は石垣人は堀」の古歌はまことだと、家臣に述べる。

この政宗の逸話から、信玄の歌ではないことは確かだが、信玄の人間性を最もよく物語る歌といえよう。


大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することとが、最も重要である。
武田信玄(甲陽軍鑑)

2.武田信玄は幼少の時に五山僧の岐秀元伯を師として漢学・国学を学び、国主になってからも、名僧を甲斐に招いてその講義を聞いた。また読書を愛して、『源氏物語』といった文学から、兵法書はもちろん、諸子百家の書をも読破し、高い教養を身につけた。

それだけに、信玄は武に秀でた勇将であるだけでなく、自ら帝王学を身につけた、博識の武将であった。よって主君として、家臣や領民を思いやる気持ちも人一倍強かった

戦いを国境の外に展開した理由の一つに、国内でやれば田畑は荒らされ、領民が困るということがあった。内政家としての信玄は、釜無川の築堤など民政に力を入れた。

武将としての信玄は、軍法を重視したが、軍法の基本は大将の指揮が的確なことにあるとして、大将の心得を説いている。 それはまず、大将は人を正しく評価して、奉公人の得意とするところを知って、適所に人を任ずることが重要であるとする。

侍をはじめとするすべての奉公人に対して、手柄を大中小に分類し、手柄のない者も大中小に選り分け、鏡に映るように公正に掌握し、決してえこひいきをしてはならない。手柄を立てた武士への恩賞も大中小に応じてきちんと与え、ねぎらいの言葉も、手柄に応じて、大将自らが行えという。

そしてそこには、冒頭の言葉にある、「慈悲の心」がなくてはならないのだ。 ただしいつもニコニコしていてはならない。怒る場合には怒れという。そうしなければ奉公人は油断する。油断すれば思慮のある者も法度に背き、上下ともに損失をこうむる。怒る際も奉公人の罪の大中小を考慮し、許すことの必要性も説く。

信玄は分国法として「甲州法度之次第」を、27歳の天文16年(1547)に制定した。この法度の最後に「晴信(信玄のこと)が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安(投書) をもって申すべし。時と場合によって自らその覚悟をする」という一項目がある。

法を家臣や領民だけに押しつけるのではなく、国主である自分もまた、その束縛を受けることを、明文化して世間に告知したのである。自分が違反すれば、自らをも罰するとした、この法度に、信玄の廉潔な政治姿勢を見ることができよう。


戦いは五分の勝ちをもって上となし、七分を中とし、十を下とす。 武田信玄(甲陽軍鑑)
3.武田信玄は戦国大名として、ずば抜けて思慮が深く、卓越した政治家であるとみなされてきた。彼ほど日本の武将で、古代中国の「孫子」の兵法を徹底的に学び、実践した武将はいないとされる。「孫子」の兵法は単なる戦闘技術を説くのではなく、組織経営、戦略、人間の起用法など、哲学の領域にまで高められた軍学書である。

「孫子」の兵法の理想は「戦わずして勝つ」ことだった。よって信玄の戦法は、川中島での永禄4年(1561)の死闘があったが、本来こうした会戦を好まず、外交戦を主体とした。確かな情報をもとに、相手の欲を巧みに利用して、こちらに引き入れる戦略が多かった。だから敵を叩き潰すのではなく、養子縁組や家臣化し、相手の生存をも保証する戦いであった。

信玄はそうした戦略を旨として、「孫子の旗」を陣旗とした。「はやきこと風のごとく、しずかなること林のごとし、おかしかすむること火のごとく、動かざること山のごとし(疾如風徐如林侵掠如火不動如山)」と揮毫された旗である。

信玄は神仏を深く敬う。信長が比叡山を焼き討ちしたことに怒りをあらわにする。武神である諏訪大杜を庇護して「諏方南宮上下大明神」の旗をも軍旗とした。 その信玄は戦勝は五分が一番よいといった。なぜなら次への励みになるからだ。 七分勝つと怠りを生む。完全に勝つとおごりたかぶって、味方が大敗する下地になるとする。

信玄はまたこうもいっている。「戦いは40歳以前は勝つように、40歳からは負けないようにすることだ。ただし20歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎではならない。将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である」

さらに信玄は、敵には強敵、大敵、若敵、小敵、弱敵の五種類があるともいう。 強敵とは勇猛で判断力優れた主君のもと、立派な家老がいて、忠誠心を抱く侍大将がいる敵。大敵とは大きい領地と多くの兵を持つ敵。若敵はまだ戦いに勝ったことのない力量の若い敵。小敵は領地も兵も少ない敵。弱敵は武勇も劣り、他国への攻めを考えない敵をいう。

敵と戦う時は、これをよく見極めて戦えという。とくに信玄は若敵と小敵に気をつけるよう注意する。若敵は意外に目を見張るような戦いをして、手強いことがある。また小敵も何を仕掛けてくるかわからないので、油断は禁物だといっている。


奴隷ビジネスの黒幕はこの男だ
冷酷度5
腹黒度4
変態度4
鬼畜度5
略奪行為は兵たちが個々におこなったものばかりでなく、信玄の命令により組織的に実行されることも多かったという。産品や人的資源に乏しい甲斐で四方の戦線を維持していくためには、略奪もまた必要悪だったのだろう。

たとえば、天文12年(1543)に信玄が志賀城を攻めた時のこと。援軍にやってきた関東管領・上杉憲政の軍勢を返り討ちにして、3000もの首を城下に晒した。この凄惨な眺めに城兵は意気消沈。戦意は萎えて、武田軍はやすやすと防衛線を突破、城に攻め入る。もちろん城兵は皆殺しにした。

そして、落城後にはさらに残酷な地獄絵図が待っていた。信玄の命令により、城主や重臣たちの妻子、侍女、さらには城下の領民が残らず集められて連行された。日本の合戦史のなかで、戦闘後にこれほど徹底して非戦闘員の領民が捕らえられた例はあまりない。

信玄は捕虜たちを甲府まで連れ帰り、奴隷市を開催して売り飛ばしたという。この奴隷市で売れ残った者たちは、男の場合は鉱山の人足として過酷な労働を強いられ、女はみんな女郎屋に売り飛ばされた。奴隷ビジネスは金山開発などと同じくらい重要な武田氏の産業だったという。

江戸時代に編纂された甲斐の国史ともいうべき「勝山記」は、信玄に対してかなり好意的に書かれているが、この志賀城攻略戦における戦後処理については批判的。

やはり、戦乱の時代においても極悪非道な行為だったようだ。戦国最強軍団の軍費は、侵略された地域の領民たちの血と一課によって賄われていた。占領地では規制を撤廃して楽市楽座を聞き、産業を発展させた信長は、敵対勢力から「悪魔」「魔王」などと呼ばれたが、信玄の行為はその悪魔でもやらなかった卑劣きわまりないもの。

志賀城での殺戮だけではない。しぶとい抵抗をみせた佐久地方や北信地方でも、信玄はかなり残虐で過酷なことをやっている。敵に対しては徹底して残酷になれるのも、虎という動物の性なのか?このため、21世紀の現代になっても、雲の評判は悪いという。
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