石田三成は秀吉のために働き成果を発揮するが家康の天下とりに利用された

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石田三成

戦術3
知力7
政治力5
忠誠心10
運8

三成が秀吉のために働き成果を発揮する
1.秀吉が何十万もの大軍を動員するようになると、三成の必要性はさらに増してくる。兵站輸送などでは優れた能力を発揮した。

柴田勝家を相手に戦った賎ヶ岳合戦で、秀吉は主力を率いて主戦場を離れ、岐阜城の織田信孝を攻撃する動きをみせる。これは陣地を動かない柴田勢に対する陽動作戦であり、秀吉の不在を知って柴田勢が攻撃に転じると、秀吉は即座に引き返して戦場に戻り勝利を手にした。

この時、秀吉は行軍中の大垣から賎ヶ岳の戦場まで、50キロ以上の行程を一昼夜で走破する強行軍を行っている。

しかし、その能力は諸刃の剣でもある。三成が秀吉のために働き成果を発揮するほどに、諸将たちの三成に対する憎しみはつのる。

誰もが三成のように、秀吉の意志をすべて察しているわけではない。秀吉の名を借りて、自分の好き勝手に豊臣政権を私物化している。そう考える者もいただろう。

秀吉の死後、その鬱屈した思いが暴発して三成は武断派大名の襲撃を受け、政権内での居場所を失った。天下の纂奪を狙う徳川家康が、三成を悪者に仕立て上げ、内部抗争により豊臣政権を崩壊させようと画策したともいわれる。

実際の歴史も、家康が狙った通りの状況となった。三成憎しで凝り固まった豊臣恩顧の大名たちは、こぞって家康に与して関ケ原合戦を戦った。

三成は家康の天下獲りのために利用され、自分が望むところではなかった豊臣政権を滅ぼすのにひと役かってしまう。頭の回転が早く有能な官僚である三成だが、どうやら謀略の才は欠如していたようである。

確かに秀吉のために謀略を仕掛けたことは多々あるが、それはすべて秀吉の心を洞察し、秀吉に代わって行っただけのこと。秀吉が語らずとも暗に示したものを実行したに過ぎない。

秀吉が考え、三成が実行する。秀吉が没したところで、三成の謀略や戦略にかかわる思考は機能停止していたようだ。黒田官兵衛らのように自分で考え行動する軍師ではない。そこに三成の悲劇があった。


石田三成名言集(常山紀談)

われは汝が二心のあるのを知らなかったことは愚かだった。だが約束を違え、義を捨てて、人を欺いて、裏切ったのは、武将の恥辱、末の世までも語り伝えて笑うベし
石田三成(常山紀談)

2.関ヶ原合戦で敗れ、捕らえられた石田三成は、徳川家康がちょうど滞在していた大津(大津市)の本陣に送られた。三成は本陣の門外に、縄目を受けて、畳を敷いた上に座らされていた。東軍に味方した武将たちは、家康と行動をともにしており、いやでもその前を通らざるを得なかった。

三成と馬が合わず、殺したいほど憎んでいた福島正則は、関ヶ原でも先鋒として大活躍したが、通りざま「無益な戦いを起こして、その有様はなんだ」とののしると、三成は「おのれを生け捕りにして、縄を掛けられなかったのは天運なり」といった。正則はこれに一言もいい返さず、行ってしまう。

黒田長政は、馬より降りて、「不幸にしてこうなってしまわれた。これを召されよ」と、着ていた羽織を脱いで、縄目の上から掛けてやった。

関ヶ原合戦は、両軍互角の戦いのなか、小早川秀秋が西軍を裏切ったことで、家康の勝利となった。この秀秋は一成の様子を見に行くと言い出した。そばにいた細川忠興は「そんな意味のないことはやめろ」と止めた。しかし当時19歳だったとされる秀秋は、これを振り切って、三成の前に現れた。

めざとく秀秋を見つけた三成は、憎しみのこもった鋭いまなざしを向けると、冒頭の言葉を浴びせた。秀秋は結局、大恥をかかされて、心をかき乱され、言葉もなく現場を離れた。

秀秋は太閤秀吉の養子だった。同じ養子の字喜多秀家から、秀吉に恩をこうむった者として、豊臣家のために働けとなじられていた。秀秋の心中は複雑だった。

秀秋は朝鮮に出兵した折、三成から総大将にふさわしくない行動をしたと秀吉に進言され、筑前から越前の国に左遷されるなどし、三成を憎んでいた。その一方、この時に面倒を見てくれた家康に恩義を感じていた。また秀吉の正室おねから家康に味方するようにいわれでもいた。

関ケ原を見下ろす松尾山に陣した秀秋は、すでに家康に内通していた。ところが秀秋を味方にしたい三成は、秀頼が成人するまで関白の座を与えるなど、好条件を提示して抱き込みにかかった。秀秋は関白の魅力に心が西軍に動き、戦闘が開始されても迷い続けた末に、三成方を攻めたのだ。三成はそんな青年の心の悩みを知っていたのだろうか。



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