北陸・甲信越の城 一覧表|日本全国お城情報

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北陸・甲信越 城リスト

亀山丘陵の大縄張越前大野城
福井県大野市城町3番109号
築城者: 金森長近
遺構: 門、石垣

1.越前大野城は、安土桃山時代の天正4年(1576)に金森長近が大野盆地の亀山に築いた平山城に始まります。織田信長の老臣柴田勝家に属し、前田利家・佐々成政とともに府中三人衆と呼ばれた長近は、信長から越前国大野郡を与えられて、朝倉氏の旧城戌山城に入りました。

しかし交通も不便なので、北陸・美濃両街道を押さえる要地に新たな近世城郭として大野城を構築しました。長近は在城11年で飛騨へ転封となりましたが、城郭と城下町の基本は、長近時代に定まったものです。

大野城は、九頭竜川の主流である真名川・清竜川・木瓜川が流れる大野盆地の亀山と呼ばれる独立丘に築かれた平山城である。城は、亀山の頂部に本丸を配し、東山麓に二の丸・三の丸・外丸とを階段状に配した階郭式縄張である。本丸には二層三階の大天守とニ層二階の小天守、天狗書院が建てられていた。

山頂の本丸に、天守と付属する小天守と天狗書院を置き、ほかに隅櫓・城門など諸建物が設けられました。東の麓には二の丸・三の丸・外郭などが置かれています。
現在、標高249メートルの亀山山上には、昭和43年に復興再建された二層三階の天守と天狗耆院が野面積みの天守台上にそびえ、大野市のシンボルとなっています。

最上階は展望台で、大野市街をはじめ大野盆地を足下に、遠く白山連峰も眺められます。ほかの階には、歴代城主の遺品や古文書などが展示されています。また城下町は、自然と素朴さが魅力です。碁盤目状の町割り、江戸時代から続いている朝市、縦横に走る水路、各所に見られる湧水、名水、古刹が立ち並ぶ寺町など、山国の城下町を堪能できます。



一乗谷朝倉氏館(福井県福井市城戸ノ内町)
一乗谷川に沿った狭い小盆地で、北方が足羽川、他の三方が深い山に囲まれた容害の地にあるー乗谷朝倉氏館。館の東方には、ー乗山城が戦時の詰の城として存在した。

昭和60年代から全国各地で戦国時代の山城や居城の遺跡が大規模に発掘され、ふるさと創生や町づくりの核として、多くが遺跡公園のような形で整備公開され、観光を加味した生涯学習の場となっている。

そうした一つ、ここ一乗谷は、訪れるたびに風景が変わる。発掘調査後に出土遺構が整備公開されたと思っていると、数年後には、遺構の上に建物が次々と復元されるのだ。朝倉氏の主舘や居舘群が並ぶ東側は遺構展示のままだが、一乗谷川を隔てた武家屋敷街と城下町地区が次々と復元され変貌する様子には、目を見張るばかりだ。

舘一帯から城下町は、こうして昭和42年から始まった発掘調査により、出土遺構の保存展示や城下町重臣屋敷街の復元工事がなって、今や福井を代表する観光地となった。一乗谷の入口には県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館がある。館内には出土遺物の数々と復元模型など貴重な資料が常設展示されている。

飯田城(長野県飯田市追手町)
2.信州伊那地方には、実に多くの古城址が良く保存されて残る。この飯田城もその一つ。武田信玄が南信濃の軍略上の拠点として天龍川の支流、松川と谷川に挟まれた所に築城したことに始まるという。

今日、飯川市立図書館脇に桜丸の赤門が残り、棟門である四脚門の堂々とした風格を示す。八双金具や乳頭金具が残り、朱色に塗られた門扉の脇には、全国的にも珍しい起破風造の番所が残る。門の左右には塀もあり、門内には石組み角井戸が保存されている。

この城門だけでなく、飯田城の遺構建築としては脇坂門が原位置にある。また市内の松尾にある木下家には、この丸八間門とも大手門とも伝わる門が、左右の多聞櫓と共に移築されて残る。

櫓門の二階と多聞櫓にあたる壁は真壁仕上げ、城門は透戸であって、格式高い城門建築である。飯田城の創築は詳らかでない。前述したように戦国時代に武田信玄が築城、山伏丸、本丸、二の丸、三の丸地区を築いたといわれる。山伏丸は「詰の丸」に相当する。

軍師山本勘助の縄張高遠城
長野県上伊那郡高遠町大字高遠町城跡
築城者:武田晴信(信玄)
遺構: 土塁、堀、石垣の一部

高遠城の創築については諸説あり、はっきりしません。この城は、諏訪氏の一族である高遠氏の居城だったのですが、時代が下り、天文14年(1545)、甲斐の武田晴信(信玄)が高遠城を攻略して奪い、同16年に現在の城跡に大規模な築城工事を起こしました。
高遠の地に城が築かれたのは天文16年(1547年)。武田信玄が伊那を中継基地として遠江、西三河に侵攻するため、山本勘介に築城を命じた。

そして天正10年(1582)、織田信長軍と武田勝頼軍の攻防戦の中で、武田軍側の城主仁科盛信以下全員が壮烈な戦死を遂げています。

城は、三峰川と藤沢川の合流点に位置する平山城でした。三峰川の断崖上に本丸を構築、その南に南曲輪・法どう院曲輪を、西には勘助曲輪を、北に二の丸・三の丸を配置します。二の丸には馬場・武具蔵・米蔵・御厩・二の丸門・不明門があり、三の丸には搦手門・大手門・侍屋敷などがありました。

現在、城跡には本丸跡・空堀・本丸石垣・大手門石垣、明治時代に再建された太鼓櫓・城門、本丸虎口の空堀に架かる橋、そして藩校「進癖目」が残されています。また、明治8年(1875)から植えられた桜が1500本以上になりました。高遠城の桜は全国的にも有名で、季節には多くの見物客が訪れます。

城跡の東側には、復元された「絵島囲屋敷」があります。絵島とは、江戸山村座の役者との密通の罪で正徳4年(1714)にこの地に流され寂しい半生を送った、江戸城大奥の大年寄です。役は大年寄ですが、当時彼女は33歳、墓が城下の蓮華寺にあります。この絵島事件は明治になって歌舞伎に脚色されました。

高遠は三峰川と藤沢川に臨む静かな城下町だ。この二つの河川の合流点に高遠城がある。別名を兜城といい、兜を伏せたような45度勾配の高さ80メートルの山を城郭とする。

天文16年、信濃統一をめざす武田信玄は山本勘助に命じて、伊那谷侵攻の拠点として高遠城の築城を命じたという。信玄は伊那から三河、遠江進出のための中継基地として城を整備し続けた。

城は本丸を中心に二の丸、三の丸が梯郭式に配され、城の東西には勘助曲輪と南曲輪が付属し、北東側には出丸として法瞳院曲輪があった。法瞳院曲輪の弱点を補う形で、北西側には二段の腰曲輪が設けられていた。甲州流兵法を如実に語る縄張だ。城下町方面だけが開かれる堅固な城で、城下町の高台には寺町が形成され、敵は容易に城に近づけない配置となっている。


高島城(長野県諏諏訪市高島城公園)
諏訪湖に面して、諏訪信仰の中心、諏訪大社の上社と下社があり、この上社と下社の中間に高島城がある。諏訪大社の神官だった諏訪氏が舘を営み、上原城を詰の城としたことに始まる。

かつては諏訪湖上に浮かぶ名城であった、上諏訪の市街地に位置する高島城。諏訪の地は古来、諏訪信仰の中心であり、湖を挟んで上社と下社が祀られてた。この諏訪大社を治めたのが、諏訪氏を名乗る神宮家であった。諏訪氏は中世には武士団を組織して、上原城を本拠としていた。武田信玄の跡を継いだ勝頼が諏訪氏の惣領であったことは周知のとおり。武田氏滅亡とともに諏訪氏の残党は徳川家康の支配下となった。

今日、城址を訪れると、銅板葺き三層五階の鉄骨コンクリート製の復元天守がある。天守のほか櫓、門が復元され、城壁の石垣がよく残る。この天守はもともと柿葺きで、明治5年に破却される際に写真に撮られていたので、よく外容が判る。

明らかに桃山時代の古式な手法で築かれている。高島城には天守のほか、櫓八基、門六棟が構えられ、石垣で固められて、本丸、二の丸、三の丸、衣之渡曲輪、南曲輪から成った。城域は諏訪湖上の島で、衣之渡曲輪が土橋状に陸と細長い通路で結ばれていた。だから「諏訪の浮城」として、江戸時代から知れ渡っていた。


松代城(長野県長野市松代町)
松代城ははじめ海津城と呼ばれ、永禄3年(1560年)武田信玄が川中島一体の支配の拠点と上杉謙信との決戦に備えて築城。高坂昌信を城将とした。

長野電鉄松代駅に隣接する松代城は、平成16年にまったく景観を一新した。埋め立てられていた本丸をめぐる水濠は旧観どおりに復元され、崩壊していた石垣も発掘調査と古絵図に基づき復元。

その上、本丸の表門である桝形虎口の太鼓門、本丸搦手門である北不明門がそれぞれ復元された。これほど手が加えられた城址だが、残存していた森忠政時代の天守台石虹は原状のまま残されている。

忠政の時代に天守台石畑の上に何層の天守があがっていたかは不明だ。この天守は、次いで入城する松平忠輝、これに続く松平忠昌の代頃まで存在していたようだが、元和八年に上田城より入部する真田信之の時代には天守建築は失われていた。真田氏時代には天守台石垣上に二層の隅櫓が北西隅に建てられていた。

天守台石垣の西側には、トンネル状の埋門が石組みをもって復元されている。トンネル状埋門は姫路城に残るだけなので、今回の復元の見どころの一つといえよう。

上杉謙信の居城春日山城
新潟県上越市春日山1丁目、中屋敷大豆、中門前、春日
築城者:長尾為景
遣構:天守台、空堀、井戸跡、土塁

3.春日山城は、戦国大名・上杉謙信の居城として有名になりました。本格的な築城は永正7年(1510年)以降、長尾為景の本拠となってから行れた。以後、上杉謙信によりたびたび普請が繰り返された結果、大城郭となった 。 頚城平野にそびえる標高180メートルの春日山にあります。南北朝時代に築城されたという説もありますが、大々的に普請したのは戦国時代の長尾為景です。

為景の子が上杉謙信で、天文17年(1543)19歳で城主となって、天正6年(1578)49歳で死去するまで、この城を根拠地として関東、信濃、北陸へと進出して戦いました。

城の規模は極めて広大で、春日山全体に及んでいます。面積でいえば5万ヘクタールを超えるでしょう。曲輪・空堀・士塁・井戸・虎口などの戦国時代の遺構が残っています。縄張からは、本城地区・追手地区・根小屋地区・砦群の4つに分けられます。

本城地区には本丸跡・天守跡・二の丸跡・毘沙門堂・お花畑・米蔵跡・井戸曲輪・景勝屋敷と呼ばれる城の主要曲輪群が並びます。井戸曲輪の井戸は直径10メートルの大きなものです。追手地区は重臣たちの屋敷があった場所、根小屋地区には直江山城屋敷・右近畑・御屋敷・上臘屋敷などがありました。砦群は周囲4~5キロ範囲に構築されたものです。

根小屋地区の中腹に春日山神社があり、上杉謙信の銅像も立っています。山麓には林泉寺があり、謙信が幼少時代修学したところで、かつて城門であった山門があり、謙信の墓が裏山にあります。


信越の押さえ高田城
新潟県上越市本城町6
築城者:松平忠輝
遣構: 本丸跡、土塁、堀

北陸と東山道とを結ぶ要衝に位置する。城は本丸を中心に、そのまわりをこの丸が廻り、西南と東北に三の丸を配する輸郭式・梯郭式縄張を併用した構成だ。

慶長15年(1610)堀忠俊の改易によって徳川家康の六男松平忠輝が越後75万石の太守として直江津の福島城に入りましたが、海に近いため塩害を受け、より内陸に高田城の構築を計画します。義父の伊達政宗を普請総裁とし、12大名の助役を得て同19年には完成しました。

慶長19年といえば大坂冬の陣が起こった年で、幕府としては加賀の前田氏や出羽の上杉氏に対する北陸の押さえを確立し、さらに天下普請により外様大名に財政的負担をかけようとする目的があったようです。

しかし忠輝は、大坂夏の陣へ不参の罪により元和2年(1616)改易、以後7氏の城主が交替しています。

本丸・二の丸・三の丸と合わせて62万平方メートルの広さ、外堀は関川の蛇行部を利用したものです。城の防衛は堅固で、背後は関川、前面は青田川をもって防衛線としました。石垣をまったく用いず、堀と土塁だけで城の防備を固めているのも近世平城としては珍しい例となっています。天守も造らず、本丸西南隅の三層櫓が高田城のシンボルでした。

現在、城跡には本丸跡を囲む二重にめぐらされた堀が、ほぼ原形をとどめて残り、県の指定史跡になっています。また、16万7000平方メートルの外堀に咲き誇る蓮の美しさは東洋一と称えられています。平成5年に、シンボルの三層櫓が再建されました。


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