伊達政宗は酒好きで自分が料理を考えるほどグルメだった

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伊達政宗名言集(政宗の小姓頭への手紙・政宗公名語集)

その身は若輩ではあるが、小姓頭をも命じた者に、脇差しの鞘で頭を殴ったことは、それがしの誤りだ。
伊達政宗(政宗の小姓頭への手紙)

1.たとえ名将であっても間違いはする。その時、部下に素直に謝ることは、易しいようでいて勇気のいることで、なかなかできることではない。伊達政宗はこの点、非常に男らしい。自分の非を認めて、すぐに謝りの手紙を、仲間の小姓頭に出したのである。

政宗は酒が好きだった。酒に酔って波上の月をつかまえようとして死んだとされる唐代の詩人・李白を愛した。そしてその李白のように詩を作ったのはいいが、政宗もまた酒を飲むと正体をなくし、いろいろと失敗した。

だから、酒好きの四男宗泰に、あまり飲み過ぎるなと、自戒を込めて注意をした手紙も残っている。

政宗はこの日も小姓たちを前に、かなり酒を飲んでいた。蟻坂善兵衛という小姓頭がした言い訳に腹を立てた政宗は、脇差しを抜くと、その鞘で頭を打つ折檻艦をしたのだ。

寝所でそのことを思い出して、自分が悪かったと思った政宗は、翌朝、さっそく自分の気持ちを善兵衛の同僚である小姓頭に伝えたのである。

「酒を飲んでしまうと、つい自分が主人であることを忘れてしまいがちになる」と述べている。政宗は怒りにまかせて「もう出仕におよばぬ」とでも、どなったのであろう。手紙には「頭の傷が治ったら、また召し出すので、そう伝えてほしい」と結んでいる。

政宗は普段、家臣に疲れの色が見えると「休憩せよ」と声を掛けるなど、気遣いをする主君だったという。いつもは温和だが、怒ると目が角ばって、鋭く光り、目のなかに虹がたつようで、頭には角が生えたかと思えるほど怖かったという。

小姓頭の善兵衛への陳謝の文面の後半は、磯野右近という、別の小姓の処分を伝えるものになっている。

「身元保証人もいない磯野右近を、長年、召し抱えてきたが、その覚悟が気に入らない。大坂夏の陣では幼き禿までもが首を取っているのに、右近は捨て首さえ拾わなかった」といい、「その後も心を改めるかと期待したが、そんなこともない。この上は、きれいさっぱり暇を取らせる」と、期待に反した小姓の解雇を命じている。

政宗は人をよく見て、的確な判断のもと、賞罰を行っていることを示す手紙といえる。


ちっとも料理心のない者は、情けない心の持ち主である。
伊達政宗(政宗公名語集)

2.昔は「男子は厨房に入らず」とされ、厨房は女の仕事場といわれたことがあった。しかし時代が変わって、料理する男が増えている。ところが、伊達政宗は男も厨房に入ることをよしとした。

政宗は「客人を接待する一番は、心のこもった料理を出すことである。皿数の多さは問題ではない。また名物や珍味よりも、たとえ一品でも、自分が料理したものを盛るならば、それが一番のご馳走である」と言い切っている。

政宗は領土拡大に奔走した若い時代は、食べ物に気を使わなかった。湯づけ、雑炊が常食で、「朝夕の食事がうまくなくても、ほめて食べるべし」といっている。

この政宗が料理に目を向けたきっかけは、豊臣秀吉との出会いだったようだ。 「政宗公名語集」に伏見城の茶席のことが出てくる。城内には秀吉の私的空間である学文所があった。

ここの四隅に数寄屋があり、秀吉、家康、前田利家と政宗が主人となって、自前で手製の料理で客をもてなす、そんな風流な遊びをしていたことが記される。

秀吉から家康へ、政権の移行とともに、平和もまた深まり、能、詩歌、政宗の趣味も広がる。こうしたなかで、政宗は食文化を大事にした

政宗は朝起きて手水を使った後、閑所に入る。ひらたくいえば便所のことだが、それが二畳敷きの書斎ともいえる場所で、刀掛け、硯、紙、書物も置かれ、香炉が焚かれている。そこで朝夕二回、たっぷり二時間過ごすのが日課だった。

朝は朝の献立を、夕べには夕食の献立を練ったとされる。その食事は旬の食材を十二分に盛り込んで、グルメだった。

記録に残る元日朝の正月膳は三汁十六菜と超豪華である。この本膳の前に、まず若水、鏡餅、奥田餅が出て、それに大根とふのりの鯰、折見布、納豆、御飯、香の物といった精進膳が用意される。続いて雑煮に酒となり、この後、三汁十六菜となる。

この料理には伊勢海老の鬼がら焼き、鯨の石焼き、鮭漬浸し、赤貝、このわた、鮒の煮こごりなど。ほやが、汁には白鳥の肉、山芋などが入っていた。 政宗は家康、秀忠、家光と三代の将軍をもてなしたが、この時は料理を自ら運んだ。

なお、卵料理の伊達巻は政宗が好物だったことから名付けられたという。

信長流の大量虐殺も実力が伴わなければ逆効果
冷酷度3
腹黒度5
変態度4
鬼畜度4
伊達勢は近隣の小手森城を攻めてこれを陥落させたが、その後のやり方がまずかった。城兵は降伏することを許さずすべて斬り捨てられて、ついでに、女子供など非戦闘員や牛や馬に至るまで、城内にいる生物はすべて皆殺しにしてしまったという。奥州の戦いにおける虐殺記録を大きく更新する約800人を殺害、これによって政宗の悪名は一気に轟いた。

神仏を恐れなかった織田信長を信奉していた節のある政宗は、そのやり方を見習ったのだろう。 だが、近隣大名を恐怖で支配できるのは信長ほどの力があればこそ。当時、弱小勢力の伊達家では、単なる乱暴でムチャやる若殿様にしか思われない。

「あの生意気で危ないガキ、早く始末しちまおうぜ」かえって反発を生んで、奥州の諸勢力は反・伊達連合を結成。このため彼の欧州統一事業も数年 遅れたといわれる。

この残虐性はまた、政略的な演出というよりも性格なのかもしれない。なにしろ、病の後遺症で片目を失った少年期はコンプレックスの塊。しかも、実の母にまで醜い容貌を嫌われて疎まれたという。織田信長も少年期に母から疎まれて虐待され、そんな心の傷がキレやすく残虐な性格をつくるひとつの要因になったという。政宗の場合もそういった感じが多分にある。

また、政宗の母は弟の小次郎を溺愛して彼を当主として擁立しようと画策したといわれる。政宗は小田原参陣の直前にこの弟を粛清して後顧の憂いを断っている。この時代、兄弟骨肉の争いというのは、珍しいものでもない。しかし、政宗の場合は自ら刀を抜いて弟を斬殺したというから、こんなエピソードにも凶暴きがよくあらわれている。


謀略は政宗にとって最良のストレス解消法
4. 豊臣政権下の大名となってからの政宗は、性格もかなり変貌したように思われる。奥州の弱小勢力ばかりを相手にしていた頃なら、キレやすい凶暴なキャラで充分通用した。

しかし、強大な豊臣政権相手にキレたら身の破滅。そこのところは大人の分別もあったのだろう。しかし、陰謀と暴力が大好きという困った性格はそう簡単に矯正できるものではない。表だってキレることのできないぶん、そのエネルギーは「謀略」という後ろ暗く陰険な趣味に傾倒していくことになる。

陸奥に十二郡の広大な領土を得た木村吉清に統治能力がないと見るや、領民を煽って反乱をおこさせた。 そして自ら鎮圧にあたるマッチポンプのような真似をして、秀吉から黒幕としての関与を疑われると得意の口八丁で言い逃れ。この後も、ことあるごとに謀略を企んで「ワル」としてのイメージを定着させている。

秀吉の死後、覇者となった徳川家康に対しても面従腹背、つねに寝首を掻こうと暗躍した。姿勢は一貫しているが、関ケ原合戦では百万石の加増を約束されて東軍に加担しながら、裏では味方であるはずの南部氏の領地内でまたもや一授を扇動。これが発覚して家康から大幅加増を反故にされている。

また、江戸幕府の大名となってからもイスパニアと同盟して、その軍事カを利用して幕府転覆を目論んでいる。とにかくヒマさえあったら悪事を企んで、もはや謀略のデパートといった感じがする。

他の幕藩体制下の大名たちのように、ただ大人しく暮らすというのは、この男には無理。 体の中で沸々とわきおこる凶暴なエネルギーをガス抜きするために、このような謀略を企んだのだろう。つまり、彼にとって謀略はストレス解消のための趣味のようなものだった。

だが、謀略遊びだけではゴマかしきれないのか、時々、若き頃のように凶暴性が爆発することがある。酒乱の癖があり、よく酔っぱらっては小姓や近習をぶん殴ったという。

江戸市中の芝居小屋を借りきって、庶民を招待して芝居を見せるという粋なことをやったまではよかったが、二階席で観劇していた政宗は、何を思ったか目の前に並べられた酒や料理を片っ端から一階席の観客めがけて投げつけた。この乱行に怒った観客たちも政宗めがけて投げつけて、場内は大パニックになったという。

江戸の大名暮らしでフラストレーションが溜まっていたのだろうか?暴れたい衝動を抑えきれなかった。しかし、これが60歳を過ぎた老境の男のやる事か?この男の騒動好きで乱暴、迷惑な性格は、死ぬまで治らなかった。

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