長宗我部元親は天下の野心が強くて秀吉は警戒していた

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長宗我部元親名言集(土佐物語)

悪い時代に生まれ来て、天下の主になり損じ候
長宗我部元親(土佐物語)

1.長宗我部元親がこの言葉を吐いた相手が、天下人の豊臣秀吉であるところが愉快だ。

天正十八年(1590) の小田原攻めで北条氏を滅ぼして凱旋した秀吉が、京都のじゅらく第に諸将を招いて饗応した。この時、秀吉は元親に「元親殿は四国を望むのか、それとも天下に心を掛けているのか」と聞いた。

これに元親はかしこまって「どうして四国を望みましょう。天下でございます」と答えた。すると秀吉は「元親殿の器量では天下の望みはかなうまい」といった。すかさず出たのが冒頭の言葉である。秀吉は笑って「それはどういう意味か」と聞く。

「他の人の天下であれば、おそらく天下を取れると思いますが、秀吉様の世に生まれ合わせ、その望みを失ったので、悪い世に生まれ来たと申したのです」というと、秀吉は笑い転げて、上機嫌で「元親公に茶湯を所望しよう」といい、元親は喜んで千利休と打ち合わせて準備をしたと、「土佐物語」にある。

この元親の言葉は、戯れ言ではなく、半ば本心であった、だろう。元親は初め明智光秀を介して織田信長と通じ、阿波をはじめ四国全域に勢力を伸ばした。しかしその伸張を逆に信長は警戒して、討伐一歩手前まで行くが、元親は本能寺の変に救われる。そして翌年、伊予西部を除くほぼ四国全土を掌中にした。

この元親には常に中央に出る野心があった。光秀が天下を一時掌握した際は、これと組もうとした。また、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いの際には徳川家康と結んで、秀吉を挟み討ちにしようともくろんだ。

秀吉が元親を放っておくわけはなかった。天正十三年(1585)に秀吉は四国討伐を決行し、元親を屈伏させ、土佐一国の領地9万8千石のみを安堵した。

しかし秀吉は自分に抵抗し、「天下の主になり損じた」といってはばからない元親を、常に警戒し、また冷遇し続けた

元親は土佐を統一した折、一条家を土佐から追い出して戦国大名になったが、形式的には一条家がまだ主人で、秀吉は元親を補佐役として待遇し、叙位・任官で差別した。

元親に豊臣姓は与えられず、じゅらく第に後陽成天皇が行幸した時、歌会の歌に、他の武将たちは豊臣姓を冠しているが、元親のみ秦姓で最後に記される。秀吉は水軍の能力の高さと、豊富な木材の供給地として、長宗我部氏を利用した。秀吉は領地安堵の朱印状を長宗我部氏に発給しなかったらしく、一通も見つかっていない。


他国の武将が相手だと少人数を寄ってたかって虐殺
冷酷度2
腹黒度5
変態度1
鬼畜度5
土佐国内でさえこれだけ非情なことをやるのだから、これが他国となればさらに容赦なくて、同じ四国といえども阿波へ侵略した長宗我部軍団が、新開実綱という領主の激しい抵抗にあって進撃は著しく停滞した。

そこで元親は和議を申し入れて、現在の徳島市内にある丈六寺で停戦交渉をおこなうことになった。元親側から大幅な譲歩もあったことで交渉はまとまり、境内では実綱をもてなす酒宴が開かれる。

豪傑といわれた実綱は大酒を飲んでへロヘロ、家臣たちもかなり酔って油断していたその時である。床下に潜んでいた長宗我部軍の刺客部隊が一斉に広間に乱入して斬りかかった。実綱らも奮戦したが、酔っぱらっているうえに多勢に無勢、よってたかって斬り殺されてしまう。

実綱らが流した大量の血飛沫は縁側の板に染みつき、いくら拭いても血痕は消えなかったという。この縁側の板を外して天井にしたのが、現在もこの寺に残る血天井。元親の卑怯な裏切りと残虐行為を裏付ける有力な証拠物件である。

このほかにも伊予では、敵対する城の付近で住民に変装した兵たちに盆踊りをおこなわせ、これを見物しにきた城主や住民たちを襲って殺してしまった。卑怯ではあるが、こんなミエミエの手口に引っかかるほうも問題あり。四国の武将たちはどこか抜けた感じもする。

織田信長は「烏無き島のこうもり」と元親を言いあらわしたが、たしかに、こんな手口に簡単に引っかかるところをみれば納得がいく。元親だけが四 国で唯一、非情の論理を知った戦国武将だったのかもしれない。
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