千利休は茶の湯を通じて天下人の秀吉でさえ知らない情報を握っていた

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千利休

戦術1
知力6
政治力9
忠誠心2
運3

利休は茶の湯を通じて豊富な人脈があった
1.利休の本職は商人。しかも、日本随一の商業都市である堺でも有数の存在である。鉄砲など戦国大名が欲する武器も扱ったという。わびさびを追求した求道の文化人も、政治とは無縁ではいられない。

利休は茶の湯を通じて、諸国の大名や有力者と交遊があり、豊富な人脈を有していた。また、商売上からも博多など九州の各地に独自の情報網を張り巡らせている。

秀吉が利休を豊臣家の茶頭に取り立て格別の優遇をしたのも、その情報と人脈を欲してのことだ。茶室で利休の点てた茶を喫しながら、高度な政治判断を必要とする決定を下す時には、その意見を求めたという。

茶の湯の世界では、天下人の秀吉でさえ利休を「師匠」と呼ばなければならない。その立場を利用すれば、秀吉でさえ知らない情報を得ることも可能だったろう。

情報担当官、あるいは、戦略担当のブレーン。 秀吉にとって利休は単なる茶頭ではなく、こういった位置づけだった。また、会議の場が茶室であるかぎりは、きな臭い話をしていると他人に勘ぐられることもない。茶頭という肩書きは、そういった面でも便利だった。

外界と隔絶された狭い茶室は、密談の場としても最適である。それだけに、秀吉をはじめ当時の武将らが密議をする時には、茶会を装い茶室をその場として利用するのが常。秀吉の茶会は利休が仕切っていただけに、高度な機密を秀吉と共有する立場にあった。


千利休名言集(辞世のげと短歌)

人世七十 力囲希咄
吾這宝剣 祖仏共殺
提る我得具足の一太刀 今此時ぞ天になげうつ
千利休(辞世のげと短歌)

2. 茶人千利休(もとの号は宗易)は堺の商人であって武将ではない。しかし豊臣秀吉が関白就任にあわせて、正親町天皇から利休居士の号を賜って以降、茶人としてだけでなく、秀吉の側近中の側近として、その政治に参画し、利休は知行三千石をもらう。

その利休が罪を着て死ぬ時に、秀吉は切腹を命じた。切腹は武士にしか認められない死の作法であり、秀吉は利休を武人として扱った。よってここに利休の辞世を取り上げた次第である。

茶頭として絶大な信頼を寄せていた利休に、なぜ秀吉が死を命じたのか。理由は必ずしも明らかでない。しかし一番にあげられるのが、大徳寺の山門に自分の木像を置いたこととされる。

秀吉もくぐるその門の上に利休がいるとは、無礼不遜と怒った。さらに新作の茶湯道具を不正に売買して、私腹を肥やした。また秀吉が利休の娘を側室にしようとしたが、利休と娘の両方が拒否したためともいう。

利休は初め秀吉の怒りはすぐ解けると思っていた。一方の秀吉は詫びを入れて来るだろうと待っていた。その意識のずれもあったのであろう。秀吉の切腹命令に、利休は自ら助命を嘆願しなかった。

堺での閉門を言い渡され、京都を追放される時、娘のお亀に「利休めはとかく果報のものぞかし菅丞相になるとおもへば」の狂歌を渡した。菅丞相とは、讒言によって九州大宰府に左遷された菅原道真のことだ。自分は道真のように無罪だと訴えている。しかし道真の無念は怨霊となって暴れた。自分もそうなるという意味に取れば、怖い歌になる。

堺で詠んだ官頭の辞世のげと短歌の意味は難解である。「人生七十年を生きて、大事を悟った時に発するエイ、エイという叫び声をあげて、宝剣で仏陀も自分も殺すぞ」という意味だ。

短歌は「一番使い勝手のいい太刀を手にして、今この時、体もろとも天に放り投げて、断ち切るのだ」ということで、同じ意味になる。ところが、問題は剣で断ち切るものは何かということだ。不本意な切腹への恨みなのか。ならば仏も何もありはしないという、憎しみから湧く殺気がみなぎる。

だがそうではなく、70歳まで生きて、今さら仏もあるものかという禅の悟りを示しており、生死を超越して無に至る境地を歌ったのだともいう。 切腹した利休の首は、自分の木像に踏ませて、京都一条の戻橋に晒された。



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