1.山本勘助は謎の軍師でタイミング良く武田信玄の家臣になれた

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山本勘助

戦術5
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政治力3
忠誠心7
運10

勘助という男こそ武田家の軍師にふさわしい
軍学に精通した者、諸国の事情に詳しい者、あるいは、戦勝祈願の祈祷作法に精通した者などが、合戦に際して必要となってくる。該当する人材が家中にいなければ、他国からのヘッドハンティングや浪人者を採用することもある。

武田信玄の軍師として名高い山本勘助もまた、そういったタイプだった。 最近になってその実在が証明されたが、まだまだ謎の部分が多い人物でもある。

勘助は三河国に生まれ、若い頃から諸国を流浪したという。 雇われて戦場で働くことも多かったのだろう。 戦傷で隻眼となり、片足にも障害が残る醜い容貌となってしまうが、その代償として戦術や築城術、陰陽道など、戦いに必要な知識を多く学んだ。

その勘助が、初めてまともな仕官先を得たのは、40歳を過ぎた天文12年(1543)のことである。甲斐の若い国主・武田信玄は、兵法家として家臣・板垣信方から推挙された勘助という男を気に入り、好待遇で家臣団に迎え入れた。書物から得た知識ではなく、合戦で学んだ実戦的な兵法や戦術論に信玄は着目したといわれる。

また、閉鎖された山国の甲斐にあっては、隣国の情勢に詳しいことも大きなセールスポイントだった。 「この勘助という男こそ武田家の軍師にふさわしい」 信玄はそう確信した。

また、この頃の信玄は父・信虎を駿河へ追放して新政権を樹立したばかり。家臣団を再編する必要もあり、人材を求めていたことも勘助にとっては幸運だったのかもしれない。

勘助はとくに築城を得意としていた。若い頃から諸国の城を見てまわり、築城に最適の地形や土木工事の知識はもはや専門家の域。またそれは、武田氏の家臣団には最も不足した知識でもある。

信玄の戦術や戦略思想をまとめた「甲陽軍鑑」にも、「人は城、人は石垣、人は堀」と、ある。山国の甲斐は四方を囲む急峻な山々が天然の防衛装置として機能している。

家臣団に裏切り者が現れず一枚岩で対処すれば、他国から侵攻するのは難しい。そのため国内には大規模な城郭はなく、甲斐府中にある武田氏の本拠も「館」と呼ばれる程度の規模。これでは、築城技術が発達するはずもない。しかし、信濃への本格侵攻を目論む信玄からすれば、前進基地や戦略拠点として今後は多くの城を築く必要性に迫られていた。



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