豊臣秀吉は天下人になって敵はいなかったハズたが地震が怖かった
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豊臣秀吉名言集(常山紀談・京都奉公への手紙・小田原討伐の宣言書)
人はたださし出づるこそよかりけれ 軍の時も先がけをして
豊臣秀吉(常山紀談)
1.豊臣
秀吉は織田信長のもと、御馬飼いの最低の地位からスタートし、草履取りの時は、寒い朝、信長の草履を懐で温めた。やがて小人頭、足軽、足軽組頭となり、足軽大将に昇進した。
「武功夜話」には「信長様に御奉公してから六年有半、心を砕き、影後ろ相なき奉公の甲斐あって、このたびは足軽百人組の頭に御立身された」とある。
この後、秀吉は木曾川の川並衆を懐柔して味方につけ、対岸の美濃に乗り込んで手柄を立てて、士分に取り立てられ、大きく飛躍することになる。
この間、秀吉は「大飯早食い、憂い事無用」を信条に、何事にもしゃしゃり出て、仲間の顰蹙をかった。
そんな秀吉を皮肉って、ある仲間が「人は皆さし出でぬこそよかりけれいくさの時は先駆をして」と詠んだ。これに秀吉は「人は皆さし出づるこそよかりけれいくさの時も先駆をして」と、即座に返歌して、相手をギャフンといわせたという逸話がある。
秀吉は実に頭の回転が速く、機知に富む。それを如実に物語る狂歌の応酬だが、この逸話は後世に作られたもので、元ネタがあることを示すのが、『常山紀談』ということになる。
これによれば、三木牛之介という河内守護の畠山高政に仕える剛の者がいた。牛之介は兜に五尺もある鍬形をつけていた。その鍬形に「運は天に在り敵を見て退くこと無し」と、さらに「人は只さし出でぬこそよかりけれ軍にだにも先がけをせば」と詠んだ歌を書いて、天文11年(1542)正月、出撃した。
そして一番槍を合わせて、敵の大将を討ち取った。しかしその5年後、三好政勝入道と舎利寺(大阪市生野区)で戦い、討ち死にしたとされる。
秀吉は天下人となり、この牛之介の歌を御伽衆の一人から聞いたのであろう。秀吉は「この歌の趣意はよろしくない」といって、冒頭のように直したというのだ。秀吉の気概は天下人になっても衰えず、何事にも前向き、積極的だった性格をよく示す逸話といえる。
そういえば『備前老人物語』に、秀吉公の御歌として、こんな歌が掲げられている。
「武辺をば今日せず明日と思ひなば人におくれて恥の鼻あき」
伏見の普請は、鯰が大事である。
豊臣秀吉(京都奉公への手紙)
2.これは豊臣秀吉が、隠居所として伏見城を造営することになり、京都奉行の前田玄以に宛てた手紙である。
面白いのは「鯰」である。鯰といえば、すぐ連想するのは地震。鯰には地震を予知する能力があるといわれて、今でもよく話題になる。その鯰と地震が関係あると思われたのは古く、秀吉が鯰を地震の代名詞に使っているのだ。どうやら鯰があばれると地震が起きると思われていたようだ。
「鯰が大事」とは「地震対策が大事」という意味で、伏見城の築城にあたっては、くれぐれも地震対策を重視せよと命じている。この手紙は
朝鮮出兵の指揮を執るため、滞在していた肥前名護屋城(佐賀県唐津市)から出されたが、自分にも考えがあるので、急ぎ指図大工一人をこちらに寄越すようにとも命じている。
それほど秀吉が地震にこだわるのには訳があった。実は天正13年(1585)11月、秀吉は中部地方を襲った大地震に度肝を抜かれた。宣教師フロイスの「日本史」は、
関白秀吉は、かつて明智光秀の居城であった坂本城(大津市)にいたが、地震に驚き、手掛けていた一切のことを放棄して、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難したとある。
大坂城も被害を受けた。秀吉は頻発する余震に怯えた。フロイスは「恐怖と驚愕が鎮まらぬ間、奥方および自分の婦人たちを伴って館を出、御殿のなかの黄金の屏風で囲まれた、ある地所に身を置いた」と書く。
すっかり地震恐怖症になった秀吉は、大工に強震に耐えられる伏見城建設を指示した。しかし、天災は秀吉の英知をしのいだ。地震対策をしっかりとやり、完成したばかりの伏見城を、慶長元年(1596)7月12日の深夜、直下型大地震が襲う。
天守閣は倒壊して淀川へ崩れ落ち、御殿も潰れた。
これが世の終わりかと秀吉は観念したといい、命からがら広庭の白砂上に逃れた。
広庭を幕屏風などで囲い、大提灯をともさせ、床凡に座って、正室おね、側室の松ノ丸殿、おねの側近・孝蔵主と余震に耐えた。
この地震で城内で上膳女房73人、中居下女五百余人が横死した。薩摩史料は「京都、大坂も大震動、家も崩れ、人も数万人死ぬ」と、甚大な被害を記録する。
秀吉は壊滅した伏見城を捨てて、場所を移動させ、新たな伏見城を造った。天下人も地震には勝てなかった。
秀吉の言葉には一言の裏表もない。この故に自分は天道にかなう者なのである。
豊臣秀吉(小田原討伐の宣言書)
3.これは豊臣秀吉が小田原の北条氏を討伐する覚悟を決めて、諸国の大名に発した宣言書である。
五か条からなる宣言書はなかなかの名文で、秀吉の意向をくんで、右大臣の菊亭晴季が草案を作り、相国寺の僧・西笑承免も加わって完成されたといわれる。
ここでは秀吉の若き日が回想される。
「秀吉は若筆の時、孤児となって、
信長公の幕下に属し、身を山野に捨て、骨を海岸に砕くほどの苦労をして、干戈(武器)を枕とし、夜は遅く寝、朝は早起きして、忠節をつくし、戦功に励んだ。中頃より信長公の君恩をこうむり、人に知られるようになった」
秀吉は続ける。「信長公から西国征伐を申しつけられ、毛利の大敵と雌雄を争っていた時、明智日向守光秀が無道をもって信長公を討ってしまった。その急ぎの注進に接して、毛利と和睦を思いどおりに果たして、時日を移さず、京都に攻め上り、逆徒光秀の首を討ち、恩恵に報い、会稽の恥をすすいだ。
その後、柴田修理亮勝家が、信長公の恩を忘れ、国家を乱し叛逆したので、これを退治した。この外、諸国で背く者はこれを討ち、降伏する者はこれを許した。だから自分に属さぬ者はいない」と胸を張ってみせた。
それはなぜか。そこで、冒頭の言葉となる。この秀吉の言葉に裏表、つまり嘘偽りがないから、自分は天道の加護を受けるにふさわしい人間なのだというのだ。
これは小田原を攻める前年の天正17年(1589)の朱印状である。従一位関白となって、
徳川家康を屈伏させ、後陽成天皇から豊臣姓を賜って、九州に遠征し、これを平定した。その天皇をじゅらく第に招いて絢爛たる盛儀を執り行った。その得意の絶頂期に、いまだ自分に平伏しない北条氏を、関白として討ち取ろうとして、諸国大名に参集を命じたのである。
北条氏討伐の宣言書は、秀吉が成り上がりの天下人らしく、北条氏をタネに、実は自分はこんなにも偉くなったということを、知らしめる宣伝文といえた。
「予は今位人臣を極めて関白の座にあり、天下の政を見ているのだ。しかるに北条氏直は天道の正理に背き、叛逆を企てようとしている。天罰をこうむるのは当然である」として、翌年、総勢22万人という未曾有の大兵力を動員して、小田原を攻めたてたのだ。
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