高崎城は工夫に富んだデザインは城郭の中でトップクラス

更新日:

築城術の手本と呼ばれるのはどんな城

JR高崎駅から歩いて数分、烏川を背にして建つ高崎市役所周辺の公園や緑地帯がかつて高崎城があった場所だ。

高崎城は、徳川家康の命を受け、1598(慶長3)年に井伊直政が和田城の城跡に築いた城である。1619(元和5)年からは安藤重信が大改修に着手し、以降3代77年の長きにわたって改修が続けられた。

典型的な平城である高崎城。縄張は本丸を中心に西の丸、榎曲輪と西曲輪で輸郭式縄張を構成。梅木曲輪・二の丸・三の丸と梯郭式縄張で本丸を囲む格好となった。

今は残念ながら城祉は公共施設となり、一番外側の堀があるだけで、城の輪郭をわずかに残すのみとなっている。

しかし、この城は「築城術の手本」といわれるほど、よくできた城だったのだ。今は姿なき城がそういわれるのは、1717(享保2)年から幕末までこの城の主だった大河内松平氏によって城郭研究がされたからである。

それを記録した書によって縄張図ができあがっている。
縄張の基本は、鳥川を背にした半輪郭式で、これを複雑な形で取り囲む曲輪群を配置しており、どこから攻めても本丸まで行き着くのが困難を極めるよう造られている。

また、いざというときには大軍を駐留させ、攻撃の拠点とするために三の丸を驚くほど広くとっているのも特徴だ。縄張図を見る限り、攻守の両面で優れており、その工夫に富んだデザインは日本の城郭のなかでもトップクラスだという。

設計者は、家康が派遣したといわれる。おそらく武田流軍学に精通した優秀な軍学者だったと思われる。というのは、半輪郭式の造りが武田信玄得意のものだからである。武田流軍学は、甲州流軍学ともいわれ、甲斐・武田氏の戦術が理想化され、江戸時代にできあがった兵学のひとつだ。研究資料は詳細で、理論上は高松岡城完全復元も可能といわれている。


この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!
ナビ
Page Top