大谷吉継は関ヶ原で家康に負けると分かっていたけど三成と挙兵した理由
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大谷吉継
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政治力8
忠誠心9
運5
大谷吉継は関ヶ原で家康に負けると分かっていたけど三成と挙兵した理由
1.大谷吉継は秀吉に小姓として仕え、その才能を見出されて大名に出世した。
「あの男に百万の軍勢を指揮させてみたい」と、秀吉に言わしめたほどの男。しかし、実際にはその才能は軍略よりも、地味な後方支援任務や占領地の軍政などで発揮された。病が重くなり、戦場で耐えられる体ではなかったのかもしれない。
豊臣政権では秀吉が信頼する子飼いの官僚だったが、似たような立場にある
石田三成のように諸大名から憎まれることはなかった。人の感情を読むことに長けている。
また、
未来を予見する洞察力や情報分析能力も高く、秀吉の死後は家康の天下になると判断して親密な関係を築いていた。
竹馬の友である三成に挙兵を求められた時も、家康と戦っても勝利することは難しいと悟っていた。しかし、友のために、一纏の望みを賭けて決断したという。
吉継が軍師としての能力を発揮したのも、三成との友情のために挙兵した瞬間からである。
三成が大将では諸大名を味方につけるのは難しいと判断して、毛利輝元を西軍総大将に据えることを画策した。
さらに、東軍の前田利長を偽情報で翻弄し、ついに関ケ原への出陣を断念させている。決戦の場である
関ヶ原では、小早川秀秋の裏切りを想定して、小早川勢が陣を張る松尾山の山麓に武将を配してもいた。
しかし、その備えの武将たちまでも家康側に寝返ったのは、さすがに想定外。もはや万策尽きた吉継は、不自由な体で奮戦して果てた。
家康と戦っても勝てる可能性は低い。自らが予見した通りの結果となってしまった。
大将の要害は徳にあり。徳あるととろ、天下これに帰す。
大谷吉継(名将言行録)
2.大谷刑部吉継について、「名将言行録」は「人となり、奇略は諸人を超え、決断力もまた群を抜きん出ていた。だから早くから豊臣秀吉の寵任を受けていた。
ハンセン病を病んで失明し、五奉行の職を辞した。
秀吉はその才能を惜しんで、辞任を許さなかったが、吉継は病気と称して出仕しなかった」という。
その秀吉が死んで一年余り後に、関ヶ原合戦が起きた。越前敦賀五万石の吉継は合戦二カ月余り前に、
徳川家康の会津上杉東征に従軍のため出発した。その途中で石田三成に招かれ、挙兵を打ち明けられた。
二人は小姓時代から仲がよく、吉継の方が一歳年上だった。だから吉継はズパズパと物がいえた。「そなたは皆に対して、時候の挨拶や作法が横柄だから、諸大名をはじめ末々の者まで、日頃快く思っていない」と、三成の欠点を指摘して、人望のない人間が大将になっても、人がついてこないと、激しく反対した。
だが吉継は三成の意志が堅いことを知り、秘密を打ち明けられた上は、年来の友誼に殉じようと決め、佐和山城(滋賀県彦根市)に入って、家康打倒の作戦の立案に積極的にかかわった。
こうしたなかで、三成は佐和山城を西軍の拠点城として修改築して、堅固な城にしようとした。これに吉継は噛みついた。
「城を堅固にするのなら、敵地などに砦を構え、その後方の良き場所を縄張りして要害にすべきである。しかるに貴殿は城を出て働く大将なのだから、城普請など必要ない」といい、冒頭のように、大将の本当の要害とは、目に見える城ではなく、心から生まれる徳なのだといってのけた。
よって三成は佐和山城をいじることをやめた。この時、勝利は「地の利、人の和」であることをも吉継は強調している。
吉継は三成に味方することを決めると敦賀に引き返した。そして北陸を奪い取ることを計略し、兵を訓練する。
加賀の小松城主の丹羽長重、大聖寺城の山口崇永を味方につけて、金沢城の前田利長と戦う。しかし、大聖寺城を奪い取られ、さらに利長軍が南下する気配を見せると、西軍が陸海から金沢城を大挙して攻めるとの偽情報を流した。
これに驚いた利長は引き返す。利長の本隊は無事だったが、別働隊を長重が襲って勝利し、大聖寺城も奪回するなどの勝利を得た。吉継は優れた采配を北陸で振るった後、負けることを知りつつ、関ケ原に臨んだのだ。
冷酷度1
腹黒度0
変態度1
鬼畜度1
もし彼が病を患わなければ、豊臣政権を背負ってたつ地位にあったと思われる。将としての資質は誰もが認めるところ。また、尊大なところもなく、温厚で謙虚な人柄は誰からも好まれた。石田三成との友情に殉じた関ケ原合戦での死に際もみごと。
彼を悪く言う者は当時も後世もいないと思いきや、ショッキングな史料があった。
天正14年頃、大坂では夜な夜な辻斬りが頻発して市民を恐怖に陥れていた。そしてその犯人が大谷吉継だという噂がたっていたのである。
「此の頃、千人斬りと称して、大坂の町中にて人夫風情のもの、あまた討ち殺す由、種々風聞あり。大谷紀ノ介と云う小姓衆、悪癒気につきて、千人
殺してその血をねぶれば彼の病平癒するとて此の儀申し付く云々、世情風聞なり」とは、本願寺顕如側近の宇野主水の日記から抜粋したもの。
辻斬り事件が発生した当時は吉継が病を発病した頃と重なり、千人斬りを達成すれば病が治ると願掛けして彼は辻斬りに精を出してたというのである。
いったい何人の無実の人々が斬られたのだろう。
これが事実だとすれば、吉継は恐みしい殺人鬼ということになる。
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