織田信長は神経質だったけど人間味溢れていた

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織田信長名言集(信長公記・備前老人物語・武功夜話・絵本太閤記)

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、減せぬ者のあるべきか。
織田信長(信長公記)

1. 織田信長が今川義元を桶狭間に討つにあたり、清須城(愛知県清須市)で出陣を決意して、『敦盛』を謡い舞った。

「敦盛」とは幸若舞で、熊谷直実を描くもの。一ノ谷の源平合戦で、16歳と幼い平家の公達・敦盛を討った直実が、世の無常を感じ出家する。その出家時の直実の言葉が冒頭の言葉だが、今では『信長公記』の記述によって、信長の言葉のようになってしまっている。

その意味は。人間の寿命はわずか五十年に過ぎぬ。「下天」は仏教用語であり、化楽天のこと。化楽天にあっては、八百歳を一日として八千年の寿命があるという。それに比べて、人間五十年はまばたきほどの夢幻の一瞬に過ぎない。そんな瞬間を人間は生きて死んでゆくのだ。

信長はこの「敦盛」の一節と、小唄の「死のうは一定しのび草には何をしよぞ。 一定かたりをこすよの」が好きだったという。意味は「死は人間の定め。命ある間に何をしようか。人は思い出を語ってくれるよな」である。

信長は若くして父に死に別れ、また弟を失い、戦場での死者を目の当たりにして、人間の無常を若い時から痛切に感じ取っていたきらいがある。 信長はまさに圧倒的な今川軍に立ち向かうには、死を覚悟して活路を見出すしかなかった。

『敦盛』を謡い舞い終わるやいなや、彼にあった、出撃か、龍城か、その迷いが吹っ切れた。「螺貝を吹け」「具足をよこせ」と叫ぶ。具足をつけさせながら、立ったまま飯を食べ終わると、ただちに甲をつけて飛び出した。向かうは熱田神宮である。兵の集まって来るのを待つとともに、社殿に願文を捧げて戦勝の祈願をした。

「狙うは義元の首一つ」と、桶狭間で休憩中の義元を奇襲し、ついにその首を取った。尾張の信長はこの時から全国区の武将となる。

信長が義元を討ったのが27歳。そして明智光秀によって49歳の生涯を閉じる。その死んだ年齢と、「人間五十年」が運命的とされ、当時も「敦盛」は信長を連想させたようだ。なぜなら羽柴秀吉は、光秀を討って、天下取りレースのトップに躍り出た翌天正十一年(1583) 正月、姫路城での年賀の宴で直臣たちを前に、主君信長をしのび、『敦盛』を舞っているからである。


だいたい人は、心と気を働かすことをもって良しとするなり。 織田信長(備前老人物語)
2.ある時、信長が「誰かいるか」と呼ぶと、近習の小姓がすぐ来て、言葉を待った。これに「もうよい」といって下がらせた。また信長は呼ぶ。すると別の小姓が来た。同じことが繰り返された。

「誰ぞ参れ」とまたまた信長。しばらくして、小姓も退出しようとして、横を見ると塵が落ちていた。これを拾って部屋を出ようとすると、「ちょっと待て」の声。そして信長は冒頭の言葉を吐く。続けて「武士は攻めるも引くも、潮の満ち引きと同じで、合戦は潮合を読んでするものだ」といい、「今のその方の退き様は感心である」と誉めた。

神経質ともいうべき信長の性格がよく出た逸話である。 呼ばれたから来て、「下がれ」といわれれば、ただ下がる。人にいわれたら、いわれた通りにしかしない、そんな家臣は合戦に出ても、何の役にも立たないというのである。

信長はいつでも、心と気をしっかり入れて仕えよといった。小さな塵をも見逃さない、神経のこまやかさが、いついかなる時も重要で、それが最も試されるのが戦場であるとする。心と気を集中させて、潮の満ち引きのように、攻めと引きの呼吸を見誤ってはならぬ、それが真の家臣だと信長はいうのだ。

『備前老人物語』には、もう一つ、よく似た信長の話が出ている。 信長が手の爪を切っている。するとそばで小姓がその爪を拾う。しかし目をキョロキョロさせている。

「どうした」と信長が尋ねると、「切ったお爪が一つ足りませぬ」と答えた。信長が袖を払うと、爪が一つ落ちた。信長は「物事は何事によらず、念を入れて行うことが肝要だ」と誉めて、この小姓に褒美を取らせた。

信長は家臣から恐れられていた。宣教師フロイスは『日本史』のなかで、岐阜城での驚きの場面を記している。つまり信長が手でちょっと合図するだけで、家臣たちが重なり合うようにして、ただちに消え去った。

そして彼が、内から一人を呼んだだけで、外で百人の抑揚のある声が一斉に返ってくる。将軍の重臣さえもが、信長の前へ出ると、頭を地につけてものをいう。 信長は甲高い声の持ち主だったが、その声に家臣はピリピリしていた。『備前老人物語」には、そば近くに仕えて緊張する、小姓の姿がよく表現されている。


明日、輿を遣わすか、差し障りなきように移されよ。
織田信長(武功夜話)

3.織田信長がその生涯で、一番に愛した女性は吉乃だった。信長の母土田御前と血縁関係にある生駒家の娘で、信長は少年の時から、この家をよく訪れ、幼馴染みであった。

吉乃は土田御前の甥の土田弥平次に嫁いだが、その夫は戦死し、子どももなく19歳で実家に戻った。その吉乃に信長は惚れた。時に信長は斎藤道三の娘濃姫を正室に迎えていたが、濃姫に隠れて清須城を抜け出し、10キロを馬で走って生駒家をしばしば訪れた。

やがて吉乃は信忠、信雄、徳姫と信長の三人の子どもたちを産んだのである。しかし、か細くてあまり丈夫でなかった吉乃は、出産で体力を失い、病床につくことが多くなった。一方、正室の濃姫も死んだようで、信長が清須城から小牧山城に引っ越した際、造営した御台所の御殿に吉乃を移そうとしたのだ。

この頃、吉乃は衰弱が激しく、病床にあった。信長は戦いに忙しく、吉乃の病状が思わしくないことを知らなかった。信長は吉乃に忙しさに紛れて疎遠にしていたことを詫び、「新居でゆっくり養生するといい」と、やさしい言葉を掛けた。

吉乃は心こもる信長の言葉に、力を振りしぼって、涙とともに礼をいった。信長はその吉乃が不欄で、吉乃の兄家長に、輿を寄こそうと言い置いて、帰城したのだ。

輿に乗るということは、当時、身分の高さを示し、普通の女性では望みえない高嶺の乗り物だった。吉乃の喜びはいかばかりだったであろう。 吉乃は御台御殿に入り、御殿に渡って来た信長は、足の弱った吉乃の手を取って、家臣団が居並ぶ御書院に伴い、皆に紹介した。

家臣には厳しい信長としては、考えられないやさしさである。信長は足しげく吉乃のもとを訪れ、名医を呼び、薬湯に金銭を惜しまなかった。しかし病状は悪化の一途をたどって、29歳という若さで他界した。

吉乃の遺骸が、城の西4キロの地で茶毘に付された。吉乃を弔う久昌寺の縁起は「信長公は、常に妻女を哀慕して、小牧山城のに登り、遥かに西方を望んで、一課を流していた」と記す。

この時、信長は33歳。比叡山を焼き討ちして多くの僧侶を殺し、一向一揆では女性や子どもまでも大量虐殺した張本人の意外な一面が、一人の女性を通して垣間見える。


この度の瓢箪の相印、、面白き趣向である。とりわけ味方の吉事なれば、こののち例として馬印に用うべし。
織田信長(絵本太閤記)

4.太閤秀吉といえば千生瓢箪の馬印が、あまりに有名である。斎藤竜輿の稲葉山城(岐阜市)を信長は攻略した。秀吉は武功を立て、この時に秀吉が瓢箪を味方の合印に用いたことから、信長が秀吉にこれを馬印に使うのを許したことに始まる。

これより後、秀吉は瓢箪を馬印にし、戦功あるごとに、小さな瓢箪を一つずつ増していったので、千生瓢箪としてその名を天下に高からしめたというが、こちらの方は伝説にすぎない。数を増せば重くなって、馬印の用をなさない。秀吉の馬印の瓢箪はあくまでも一つである。

ところで、家紋や旗印、馬印は、武士の代だった中世、主君から許されてはじめて、家臣が自分のものとして使用できた。

秀吉が信長から瓢箪の馬印をもらった時、どんなにか嬉しかったことであろう。 というのは、農民出身の秀吉には馬印も旗印もなかったからだ。『武功夜話』によれば、永禄七年(1564)の東美濃攻めの時、黒鹿毛の馬にまたがった秀吉のその馬印は、「麻一枚、薄萌黄、御印はなし」という貧弱なものであった。

秀吉は信長のもと、生き馬の目を抜くような栄達をとげるが、こうしたなかで、どうやら馬印に非常にこだわった男だったようだ。

これはまだ秀吉が足軽の頃だった。『太閤記』によれば、美濃を攻める信長軍団に見慣れぬ旗をさしている者がいて、信長の目にとまった。調べさせると秀吉の馬印だという。信長は「誰が許した」と怒って、その旗竿を折らせた。

『絵本太閤記』には、秀吉は木綿で吹貫の旗を作り、揚々と進軍していたとある。青黄赤白黒の五色をもって作られた派手なものだったから、信長の目に止まって、信長の機嫌を損じ、旗は切り捨てられたのだ。

しかし秀吉は「これも敵をあざむく謀略」とかしこまり、「ムシロ旗をかかげさせてほしい」と改めて願い出た。秀吉の計略の深さを常々知る信長は、渋々これを許した。秀吉はムシロ旗を掲げて進んだ。信長軍が敵に押され後退した際、近くの山にこれを無数に押し立てて、兵が多くいるように見せ掛け、信長軍の劣勢を救ったという。

ムシロ旗、また麻一枚の無印の馬印だった秀吉が、晴れて信長から瓢箪の馬印を許されたのだから、その喜びはひとしおだったのである。


捕虜なんて邪魔なだけ皆殺しこそが最良の戦術
冷酷度5
腹黒度5
変態度4
鬼畜度5

一時は信長包囲網の主力として彼の軍団と死闘を繰りひろげてきた本願寺勢力。なかでも、織田領内の拠点として頑強な抵抗をつづけていた伊勢長島の一向一揆に対する討伐戦も凄まじい。

この時の戦いは比叡山焼き討ちをさらにスケールアップさせたもので、伊勢・志摩の水軍を動員して陸と水辺から大勢の一揆衆が龍もる長島城を完全包囲。

兵糧攻めに屈した一揆衆が降伏してくると、これを了解したフリをして城の防備が緩んだ一瞬の隙をついて総攻撃。騙し討ちで大勢の女子供など非戦闘員を含む二万人を虐殺した。

「女は子供を産み、成長すれば一揆勢の兵になる。今のうちに殺して根絶やしにしたほうが効率的」そう信長は考えたのだろうか。確かに一理あるが、普通の神経ではこれを実行することは難しい。

敵には情け容赦なしと、鬼のように恐れられた戦国大名は多かった。しかし、ホントに敵に対して一切の容赦なく対応したのは、信長くらいのもの。

戦争において捕虜ほど不経済で困った存在はない。捕虜の食料を確保するのも大変だし、反抗を見張るためにそれなりの兵力を見張りにつけねばならない。

延暦寺や一向一揆などの敵対勢力も同じで、宗教の熱にうかされた輩は一時降伏しても信長に心底服従しない。反乱を心配して神経をすり減らすよりは、この機会に皆殺しにしたほうが効率的で信長の合理精神には適っている。

「分捕りなすべからず、打ち捨てるべし」とは、桶狭間合戦の時に信長が部下に徹底させた命令。捕虜にする必要はない皆殺しにせよ、という意味で、若い頃からその姿勢は徹底していた。


見る者たちに恐怖を植え付けた信長
また、逆らう者には情け容赦がないというところも信長の大きな特徴。ただ殺すだけではなく、二度とそういった者がでてこないように、ビジュアル的にも残酷に、見た者たちの恐怖をあおるようにショーアップもされていた。

信長を近江の山中で狙撃したスナイパー杉谷善住坊は、捕らえられた後に往来でノコギリ引きの刑に処せられた。竹製の切れ味の悪いノコギリを使ってジワジワ苦しめながら首を斬る。なかなか細部にも凝った演出で観衆を恐怖させた。

また、信長を苦しめつづけた浅井長政、朝倉義景などは、討ちとった後もその頭骨に漆を塗って杯に加工した話は有名。信長は上機嫌だったというが、家臣たちは声もなく顔面蒼白になったという。

だが、こんな信長の行為は単なるサディスト的な趣味ではなく、「俺に逆らったら、お前らもこうなるぞ」といった桐喝の意味も多分に含んでいる。 殺される者や敵の死骸も、家臣の統制のために有効に利用する。これも信長流の合理主義なのだろう。

そんな信長ゆえ、味方の職務怠慢や裏切りへの対処は残虐で苛烈なものだった。たとえば彼が安土城を留守にした時、「鬼の居ぬ間」と、侍女たちが城を抜け出して安土城下の寺へ参拝にでかけてしまった。

しかし、信長が予想外に早く帰ったために、侍女たちのサボリが露見。激怒した信長は十数人の侍女を縛りあげて有無をいわさずに皆殺しにしている。 ちょっとサボッたくらいで殺されるのだから、裏切ったりしたらもう考えただけでも恐ろしい。

織田軍団の有力武将でありながら、突如、謎の反乱を起こした荒木村重などは、その妻や子はもちろん一族郎党まとめて100人以上が捕らえられた。そしてはりつけにかけられて、槍で串刺しにされたり射撃の的にされて皆殺し。ついでに家臣の家族や女中まで含めた約500人も処刑されるのだが、こちらは小屋の中へすし詰め状態で閉じこめ、一気に焼き殺されている。

信長が評価するのは結果のみ。成績のあがらない者は情け容赦なくリストラされた。佐久間信盛、林秀貞など譜代の家老格までがリストラされて領地没収、野垂れ死にしたという。まるで外資系企業のような厳しさ。

日本的温情主義に浸っていた当時の武将たちのなかには、心が病んでノイローゼに陥る者もいただろう。あの明智光秀も、リストラの恐怖に怯えて本能寺の変に及んだともいわれるが、それが本当だとしたら、最後はその徹底した合理主義が彼の身を滅ぼしたことになる。
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