直江兼続は秀吉に従って上杉氏の立場や権益を守った

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直江兼続

戦術4
知力7
政治力9
忠誠心10
運8

景勝の代弁者としてうってつけ
1. 兼続は越後と関東の境にある山間の要衝、坂戸城下に生まれ育った。 父の樋口兼豊は坂戸城主・長尾政景の家臣。

兼続も樋口与六を名乗っていた幼い頃から、政景の嫡男だった喜平次に近習として仕えた。その喜平次が叔父の上杉謙信の養子となり春日山城に移り住んだことで、兼続の将来も開ける。

喜平次は上杉景勝を名乗り、謙信の後継候補となった。 そして謙信の死後、同じく関東の北条家から養子に入っていた上杉景虎との間で、熾烈な跡目争いが巻き起こる。

この戦いで、景勝の参謀格として働いた兼続の活躍が際立つ。いち早く春日山城の本丸にあたる実城を奪取する果敢な行動で、軍資金を手中にして戦いを優位に展開。

また、越後国内の豪族たちを味方につけ、景虎救援のために国境に布陣した武田勝頼と交渉して不介入を約束させる。18歳の若者ながら、老槍な軍師のように巧妙な調略をみせつける。こういった工作は、経験よりも天賦の才とセンスなのだろうか?

一年後、景勝が景虎を敗死させた時には、もはや兼続を若輩者と侮る者はいない。また、幼少の頃から兄弟同然に暮らしてきた主君の景勝とは、苦しい跡目争いを共に戦ったことで絆はさらに太くなっている。景勝は家中の名門である直江家を兼続に相続させて、家宰として家中を切り盛りする任を与える。

景勝は子供の頃から無口で、家臣に自分の意志を伝えるのが苦手だったという。兼続はその逆、弁舌爽やかで言葉にも説得力がある。また、ともに過ごした時も長く、景勝の考えを最もよく理解している人物だった。代弁者としてうってつけの存在だったろう。

兼続の当面の課題は、長い内乱で離反した国内の諸勢力を再統合して「強い上杉氏」を再生すること。そして、越中に侵攻してきた織田信長への対処である。本能寺の変が勃発して信長の進撃は滞ったが、その後、柴田勝家を破った羽柴(豊臣) 秀吉が圧迫を加えてきた。

「もはや天下は秀吉のものです」兼続は屈服を渋る景勝を説得し、秀吉に臣従する道を選んだ。もはや国力の差は歴然、戦っても勝ち目はない。それよりも、天下人に臣従しながらいかに上杉氏の立場や権益を守るか。

そこが軍師の腕の見せどころ。 軍略よりも外交力と政治感覚が重要となる、そんな時代になっていた。幸い、兼続の人柄は秀吉の側近・石田三成に好まれた。互いに正義感が強く、知性も高くて話も合う。

三成の好意もあり、上杉氏は毛利氏と同様、豊臣政権下で最も信頼のおかれる大名として盤石の立場を得た。兼続が景勝の家臣でありながら諸大名と同等の待遇を得たのも、三成や秀吉が彼を高く評価して信頼したことの現れだ



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