毛利元就の言葉は子どもや家臣に語り継がれる
更新日:
毛利元就名言集(吉川文書・永禄聞書)
われ、天下を競望せず。
毛利元就(吉川文書)
1.「天下を競い合うつもりはない」毛利元就の遺訓として、吉川家に伝わったものを、孫の広家(父は元春)が書き残したもの。
二男だった元就は、10歳で父母に死に別れて孤児となり、譲られていた多治比三百貫の土地も、猿掛城(広島県安芸高田市)と一緒に後見人の井上元盛に横領されて、哀れな少年時代を過ごした。その少年元就の境遇に同情した、父の側室・杉の大方によって育てられた。やがて兄もその兄の嫡子も死んで、27歳で毛利宗家を継ぐ。
元就は杉の大方から神仏を敬う教育を受けた。また、彼女は自分のために再婚もあきらめて尽くしてくれた。母同然の彼女から、その犠牲的な精神を学んで、元就は人間味豊かな武将に成長する。
その一方、元就は少年時代に土地を横領されて、人間不信となり、信じられるものは「神と肉親のみ」という思いを抱き、敵をあざむき攻略する、知略の武将に成長した。
この元就は75年の人生で、戦うこと実に二百数十回に及んだ。そのなかで、最もあざやかな戦いは、44歳の時の郡山城(安芸高田市)における籠城戦である。襲来した三万の尼子勢を、わずか二千四百の少兵で退散させたのだ。
以後、尼子を宿敵として、死闘が繰り返された。そして元就が70歳の永禄九年(1566)に、月山富田城(島根県安来市)を兵糧攻めにした末、尼子義久を降伏させたのだった。ここに元就は安芸、石見、出雲、伯香、因幡、備前、備中、備後、周防、長門の中国十カ国を手にした。
当時、都に旗を掲げる夢を抱いていた
武田信玄は46歳、
上杉謙信37歳だった。そして天下を窺う織田
信長は33歳で、美濃に進出する機会を狙っていた。
こうしたなかで、
実質120万石といわれる中国地方を手にして、元就は高齢ではあったが、天下を狙える位置にあった。だが元就は自らの慢心を戒め、冒頭の言葉となった。
今尼子氏を打ち破って中国の覇者になったが、これはあくまでも時の幸運によるものであって、これ以上のものを望むべきではないとした。
この領土を外敵からどう守るか、それが子孫の課題だとして、そのために毛利宗家を支える小早川、吉川の両川体制を確立した。天下を狙うためではなく、領地を守るためにである。
国に法度を立てることは、すなわちわが心の邪正賢愚を表す道である。無道の法を置けば亡国の発端となる。その国に入ってその政治を聞けば、国主の心を知ることができる。
毛利元就(永禄聞書)
2.その国の法度を見れば、その国を治める領主の心がわかるという毛利元就は、いかに国の統治に、清廉潔白な心をもって当たったかがよくわかる。
偉大な政治家はまた名言を残す。豊臣
秀吉、
徳川家康、武田信玄らとともに、元就の言葉もまた心を打つものが多い。組織経営にかかわる元就の名言がいくつかある。
『老翁物語』に「言葉は心の使いである」と、実に印象深い文言を記す。そしてその言葉によって、その人が善か悪か、才能があるかないか、剛勇か臆病か、利口か愚かか、遅いか速いか、正直か正直でないか、そうしたことがすぐにわかるものだと、元就はいったとある。
そして元就は、心の使いである言葉によって、相手の心を推し量り、その人相応のご用を仰せ付けた。よって人は元就の推測どおりの働きをし、武力を拡大できたとする。「名将言行録」は、元就がある家臣に元旦を祝うことの意味をこう語ったと記す。
元旦といえば、みな恵方(干支にちなむめでたい方向)を拝んで、昆布、勝栗にて屠蘇をくんで、寿命長久、子孫繁栄などを祝すだけで、分別遠慮といったものがない。
それよりも大事なのは、元日一は年の初め、月の初め、日の初めである。だから朝4時に起きて、一年のことを思いめぐらすべきなのだ。
例えば、今年は西国は日照りが心配だ。民の飢え苦しむ様がありありとして、安堵の気持ちになれない。たとえ戦争はなくても大変な状況になることを考え、凶年をどうやったら救えるか考えることだ。
つまり毛利家の者はその上下の区別なく、いつでも適切な処置が何事においても取れるように、遠くを思いめぐらすこと、すなわちそれが元旦の祝いというものだ。
だから一年の計は春にあり、一月の計は朔にあり、一日の計は朝にある。そしてなんといっても、一年の計は勤めにあると力説した。
また中国を平定した際、元就は諸将を集めて「お前たちを追々に服従した国に差し向けるが、『その地方の者をあなどる者は、決してその地方の君となることはできぬ』という言葉を忘れてはならない」と教諭している。力だけで国は支配できぬことを、元就は子どもや家臣たちに常に語っていたのである。
この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!