長野県・松本城|漆黒の天守は日本で二番目に古い
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松本城(長野県松木市丸の内)
1. 松本城は、戦国時代の永正元年(1504)に、小笠原一族の島立貞永が築いた深志城に始まります。当時はまだ小規模なものでした。天文19年(1550)には、甲斐の武田信玄に攻められて落城、以後32年間、武田氏の信濃での拠点となります。
天正10年(1582)に武田氏が滅び、小笠原氏が復帰しました。そして城を大改修して松本城と改称します。本丸・二の丸・三の丸を設けて、堀と塁をめぐらし、5ケ所の虎口が置かれました。
同18年石川数正が入り、近世城郭の建設と本格的な城下町造りに着手します。数正の子康長の時代にようやく城郭の規模が整いました。五層六階の大天宗乾小天守、渡櫓はこの時に築造されたものです。
松本城の最大の見どころである天守は、数正の独創によって築造されたものだといいます。
辰巳附櫓と月見櫓は、寛永年間(1624~43)に、時の城主松平直政が築造して付け加えたものなのです。天守は国宝に指定されていて、下見板が黒いところから、「烏城」とも呼ばれています。
昭和35年には黒門桝形一の門を復元、平成2年には同桝形二の門と袖塀が復元されました。さらに松本城には武田氏の時代のものと考えられる馬出が残っています。
また天守前は堀の幅が広いので、今もひとまとまりになった大天守・小天守・月見櫓の天守群が静かなたたずまいを水に映しています。
松本城は信州松本平の中央、女鳥羽川水系を濠とする平城である。
現存する五層大天守をはじめとする天守建築群はいずれも国宝で、姫路城と並んで桃山文化を代表するものである。
現存12天守のひとつであり、連結式天守群を残す松本城。
松本平を支配下においた武田氏の滅亡後、豊巨大名となった石川数正・康長により新たな築城がなされた。のち徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を復元し、松本城に再入城。
城の構成は本丸を中心とし、本丸の東南西の三方を二の丸が廻り、その回りを三の丸が囲む輪郭式縄張を採用する。寛永年間に小天守と睨櫓が増築された複合連立式天守となった。
姫路城の白亜総塗込めの純白美に対し、松本城は黒漆を外壁板に塗った黒く輝く城であり、本丸を囲む広大な濠に映える姿から「鶯湖城」ともいう。鴦湖とは諏訪湖の雅称でもある。
松本という要衝に、石川数正・康長父が築いた人守は、実戦的な城づくりの最高技術が随所に取り入れられた歴史に残る名城となった。この傑作は、なぜ生まれ得たのだろうか。
戦国から安土桃山時代にかけての日本は、城や人守の建設ラッシュ。いつ城攻めにあっても不思議ではない時代、城にはあらゆる実戦的な備えが施される。石落しや狭間などを備えるのはもちろん、補修で隙を作らないよういかに城を強く長く保つかが、正に死活問題であった。
これら命懸けの課題に対し、名だたる武将たちが工夫を凝らし、築城技術は飛躍的に進化していく。石川氏が
天守を築いた頃には、城づくりは円熟期に達していたのである‥
軟弱地盤に建ちながら、明治時代に至るまで大きな修復は皆無という松本城には、時代が蓄積した命懸けの築城ノウハウの結晶が、いたるところに散りばめられている。
城郭は本丸を核に二の丸、三の丸が囲む輪郭式縄張で、面積はおよそ12万坪に及ぶ。築城は信濃守護職小笠原長朝が、居城を守護所の井川舘より林城に移した折、深志の地に舘を構え、坂両氏を城代としたのが始まりという。
天文19年、武田晴信(のちの信玄)は林城を攻略し、中信地方の府城として深志館を城郭に改築。城代に馬場美濃守を配して、深志城と称した。三の丸の馬州などは、武田氏時代の構築であるともいう。
信玄なきあと織旧信忠が攻略、小笠原貞慶が城王になり、深志城を松本城と改称。天正18年(1590)、石川数正が入城し、同20年より城の改築に着手。子康長の時代に現存する大・小の天守が完成したらしい。
漆黒の天守を誇る「烏城」 日本で2番目に古い天守
2.松本城は1590年、豊臣秀吉の家臣石川数正が創建し、その子康長が完成させた城郭である。壁面に張られた下見板張の黒さから、姫路城が白鷺城とよばれるのに対して、松江城や岡山城と共に「鳥城」とも呼ばれる。
冬場純自の北アルプスを背景に、黒々とそびえる天守が人々を魅了してやまない。 東と南を女鳥羽川、西を田川、北を大門沢川の流れる天然の要害に本丸、二の丸、三の丸をめぐらした惣曲輪を誇る。
もとは深志城と呼ばれ、1504年に小笠原長朝が築城したのを発端とする。1550年、
武田信玄が修築後、小笠原貞慶が城主となった際、松本城と改名したという。
一番の見所は、国宝に指定される天守としては最古の五層の大天守と、それに連なる本丸内の建築群であろう。
本丸の南西隅に建つ大天守は、高さ約32メートルもあり、大山城天守、丸岡城天守に次ぐ、日本で3番目に古い天守といわれる。 大天守の北には三層の乾小天守が建ち、渡
櫓で結ばれている。また東には、二層の巽小天守が結ばれ、東に月見櫓が建ち、まるでカラスの群れが飛んでいるように見える。
実際に現地で大天守を見ると、やや頭でっかちな印象を受ける。これは通常、一層から五層にかけて徐々に小さくなっているのに対し、四層と五層だけが同じ大きさであるために他ならない。
大天守と乾小天守は、窓がほとんどなく、鉄砲狭間や弓矢狭間、石落としが設けられ、極めて強い軍事色が感じられる。それに対して、戦国時代から半世紀近くたった1636年頃に、当時の城主松平直政が、将軍を迎えるために建てた月見櫓は、三方に開いて縁側を巡らし、月見の宴のための遊興施設である。
将軍は結局こなかったが、天守群には一見、軍事と娯楽が混在しているように見える。 実は解体修理の結果、当初の大天守は今日の姿とは異っていたことが明らかとなった。四層より五層は小さく、月見櫓同様縁側を巡らした開放的なもので、軍事色は感じられなかったという。
しかし冬にマイナス10~20度の吹きすさぶ強風の寒さに耐えかねた城主が、板ですっかり覆ってしまったらしい。その結果、軍事色が強く、頭でっかちの大天守となってしまったのである。
松本城はなぜ真っ黒なのか?
3.近世を代表する城のひとつ松本城は、その美しさはもちろん、実戦を想定したうえで綿密に設計されて建てられた堅固な城としても知られている。
そんな松本城の大きな特徴は、全体に黒が目立つことだ。そのために「烏城」という異名まであるほどだが、なぜ松本城には黒色が多く使われているのだろう。
松本城は本来、室町時代末期の1504(永正元)年に小笠原貞朝の居城として建てられた「深志城」がその前身である。その後、武田氏の居城になるなどの変遷を経た後、1590(天正18)年に城主となったのは、
徳川家康の懐刀でありながら豊臣秀吉の有力武将となった石川数正だ。
石川は秀吉の威光を世に示すために、松本城の大改築工事に乗り出す。松本城が黒い「烏城」になったのは、じつはこのときである。
黒は秀吉への忠誠心の象徴と考えられていた。ほかにも黒を使った城があるが、それらもやはり秀吉に忠実に仕えることを意味していたのだ。
秀吉が築いた大坂城は、屋根瓦には金箔が押されている一方で壁の色は黒である。これは黒によって金色を目立たせて絢爛豪華さが引き立つようにするためで、秀吉自身、黒を好んだともいわれる。
そしてそれ以降、秀吉への忠誠心を表すために武将たちは城に黒を用いることが多くなった。松本城もまた、それが目的で黒が多用されたというわけだ。
特に松本城を特徴づけているのは、壁の下部を覆っている黒漆を塗った板である。それが城全体を黒い印象にしているのだが、同時にこの漆のために雨がはじかれ、壁に水分がしみこむのを防いでいる。そのために松本城は堅固なのである。
見どころ
現存みどころ 二の丸太鼓門
松本城は大天守、小天守、辰巳付櫓、月見櫓が現存するほか、本丸黒門と二の丸太鼓門が復元されている。太鼓門は松本城二の丸大手口に相当する。枡形虎口で方形の小区画である太鼓門は堀に出っ張る型で開かれ、高麗門から入ると斜め方向に櫓門が巨石を組み込んだ石垣上に建つ。巨石は入城者を圧倒させるためだ。
二の丸は、発掘調査で出土した遺構が展示され、御金蔵も残る。
イベント
国宝松本城古式砲術演武
毎年10月に開催される国宝松本城のお祭りのひとつ。各地の古銃研究会の協力の下、松本城鉄砲隊を中心に戦国時代さながらの衣装をまとって、火縄銃の演武を被露。会場内には迫力ある銃声が轟く。毎年見に来るというファンもいるほどの一見の価値ありなイベントだ。
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