九州・沖縄の城 一覧表|日本全国お城情報
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九州・沖縄 城リスト
柳川城(福岡県柳川市本城町)
1.柳川は筑後平野の中央、有明海に臨む。有明海に注ぐ矢部川の支流である沖の端川、堀塚川のデルタ地帯で、街を縦横に堀割が走り、水郷柳川として名高い。詩人北原白秋を生んだ地でもある。この水郷の堀は、柳川築城に際して作られた、防御と資材運搬用の運河であった。
現在、柳川城吐の本丸は学校用地となり、二の丸は市街地で見る影もない。本丸の学校とは柳城中学と柳川高校で、学校の敷地をめぐってごくわずかの
石垣と水堀が残る。校庭の一隅には天守台の跡の高まり(塚状)があり、ここが天守台であったという碑が立つ。これほど徹底的に壊された城も珍しい。
城は明治5年の破却令と共に焼失し、残った石材は有明海の堤防護岸用に根こそぎ崩されて、海中へ投下されてしまった。ただ、かつて城主の屋敷が営まれた、現在は「御花」と呼ばれる一角には、今も立花邸とみごとな廻遊式大名庭園が残されている。また、市内堀割には蔵屋敷も残る。
難攻不落の三険城の一つ岡城
大分県竹田市大字竹田2889番地
築城者: 中川秀成
遺構: 石垣、櫓台
2.岡城は、文治元年(1185)に緒方三郎惟栄が源義経を迎えるため築城したものと伝承されています。そして南北朝時代の中期、大友一族である志賀氏が直入郡に進出、応安2年以降、岡城は志賀氏の居城となりました。
天正14年(1586)から翌年にかけての島津氏と大友氏の戦いに際して、島津軍3万の大軍が岡城に襲来します。弱冠18歳の志賀親善が攻守し、豊臣秀吉から感状を下賜されました。
志賀氏は17代約200余年間続き、二の丸の高石垣大友義統の豊後除国にともない、文禄2年(1593)に岡を去っています。翌年中川秀成が入封、秀成によって岡城も近世城郭の形態を整えていきました。
城郭は、ほぼ東西に延びる台地上に展開する山城ですが、その建築形態は山城的殿舎で構成された曲輪(廟所)、平山城的殿舎で構成された曲輪(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎で構成された曲輪(西の丸)からなっています。
本丸・二の丸・三の丸は東西の中仕切によって区切られていました。本丸には、天守の代わりである3層4階
櫓がありました。現在の城跡は国の指定史跡になっており、雄大な
石垣が連なるとともに、城郭からの眺望のすばらしさに定評があります。滝廉太郎作曲の「荒城の月」の旋律はここで生まれました。本丸跡に、廉太郎の銅像が立っています。
佐賀城(佐賀県佐賀市城内)
3.天守は五層造りで、今日残る石垣上にそびえていた。造営にあたり黒田長政が大工棟梁5名を遭わし、小倉城と同じ南蛮造りの天守としたと伝えられている。
佐賀城は本丸が学校敷地となり、城一帯にびっしりと県の関係の官舎が建ち並んでいて、天守台石垣上にも協和館という建物があり、わずかに城らしい風景は、現存する賊の門と、門の左右の石垣だけだった。
ところがである。平成16年10月風景が一変した。本丸に建っていた2つの学校は移転、その後発掘調査がなされ、本丸御殿の細かな部分や用途別棟割を確認。なんと本丸御殿を復元したのである。本丸御殿「御座間」だけは、南水会館として移築保存されていた。本格的な本丸御殿復元にあたり、この御蠅間は、元の位柵に戻されている。
唐津湾からの眺めが美しい唐津城
佐賀県唐津市東城内8-1
築城者: 寺沢広高
遺構: 石垣
唐津城は、豊臣
秀吉の家臣寺沢広高が慶長7年(1602)から7年の歳月を費やして同13年に完成しました。寺沢広高は豊巨大名のひとりで、文禄の役の恩賞として名護屋を含む波多氏の旧領8万石をあてがわれた。
築城には、九州諸大名の応援を得て、名護屋城の解体資材を用いたといわれています。城は本丸・二の丸・三の丸に分かれ、本丸が建つ満島山は松浦川の流れを変え、切り離されたものでした。城の全域は約45ヘクタールとなっています。
城主には、寺沢氏に次いで、大久保・松平・土井・水野・小笠原氏が封ぜられました。明治の廃藩置県があり、明治10年(1877)から本丸跡は舞鶴公園となっています。
現在の唐津城は、周囲は約1キロ、面積4.3ヘクタールあります。海抜43メートルにそびえる寺沢時代の天守台跡に、慶長様式を取り入れ、文化観光施設として昭和41年に完成しました。
天守は5層5階地下1階で、内部には郷土博物館、展望所があります。展望所からは、唐津湾や虹の松原などが一望でき、海に臨む城の雄大さが実感できます。郷土博物館内には、唐津の民俗資料、江戸時代の城下町のジオラマ、城郭に関する資料、唐津焼の歴史を知るうえでの貴重な資料などが展示されています。
また唐津は、近松寺や唐津神社、武家屋敷跡が残り、古代・近世を通しての歴史の宝庫ともいえる城下町です。
訪れるたびに風景が変わってしまう城址が最近多くなった。ここ唐津城もまた訪れるたびに
櫓の数が増えている。数年前に海岸上の石坦に隅梢と長塀が復元されたが、訪れてみたら、駐車場を囲んで土塀と物見櫓が新装されている。
唐津城は慶長13~17年に、名謹屋城を破却した際の資材で寺沢広高が8万石の居城として築いたものといわれる。ところが、今日残る石垣は名護屋城に用いられている石材とは異なるものだ。おそらくは石材は転用せず、櫓や門、塀などの一部の建物を転用したのであろう。
平戸城(長崎県平戸市岩の上町)
4.平戸島には、松浦党水軍の総帥で豊臣大名として活躍した松浦鎮信の築いた城がある。城は貿易港を取り込むもので、あまりに堅固であったために御館に移った。
平戸島の東側、亀岡には、慶長四年に松浦しげ信が築いた日の岳城という城があった。しげのぶは松浦党水軍を束ねる盟主で、
朝鮮出兵に際しては、日本の兵勢を渡海させる役割を担った豊臣大名だった。
松浦領家を徳川大名として家康に認めてもらうため、しげ信はこの日の岳城を自ら焼いて廃城にした。
城があまりに強力でかつ雷ヶ湘戸に洗われる海賊城であったため、あらぬ誤解を生まぬための戦略だった。慶長18年のことだった。鎮信は翌年五月に逝き、松浦氏は御鮪で藩政を行うこととなった。
雲仙岳の爆発で被災した島原城
長崎県島原市城内1丁目1183-1
築城者: 松倉重政
遺構: 石垣、堀
島原城は、寛永2年(1625)に松倉重政が雲仙岳麓の森岳に築いた平山城です。大坂夏の陣の軍功で元和2年(1616)に肥前国島原を与えられた重政は、一国一城令の発令後にもかかわらず、徳川幕府の九州外様大名への牽制と対キリシタン対策から特別許可を得て、同4年から新城の建設に着手しました。
城には五層天守が最上層の入母屋以外、破風飾りをもたない層塔式天守建築で、南蛮作りの外容だった。連郭式平城の城郭で、高く堅牢な作りの石垣が特徴。余計な装飾を一切排除し、天守としての風格を示していた。
城地は島原半島の東海岸寄りの雲仙岳の麓に広がる小高い丘で、工事開始から7年後に完成しています。
新城に移った重政は、領内のキリシタン取締に努めましたが、寛永7年(1630)に没しました。
翌年に家督を継いだ勝家は、父以上にキリシタンを弾圧し、度重なる飢饒にもかかわらず年貢取り立てを強行したため、同14年に島原半島と肥後国天草島の農民が相呼応して一摸が起こり、島原の乱へと発展しました。
現在は、昭和39年に復元された白亜の5層天守と3つの3層櫓が建っています。天守内部は、天草四郎の肖像画やキリシタン禁制の立札、納戸仏などのキリシタンに関する資料が展示されています。
城下町には鉄砲町と呼ばれる武家屋敷の一角が現存し、静かなたたずまいを見せています。
70石以下の徒士屋敷などが690戸あったという町筋の中央には、水路が走り、城下各所にある湧水からの清らかな流れが見えます。キリシタン関連の多くの史跡も残されています。
大分城(大分県大分市荷揚町)
5.慶長2年(1597年)から福原直高が築城を始めた大分城。3年後に一応完成したが、福原氏は完成1カ月で所領没収となった。慶長7年(1602年)竹中重利により、天守があげられた。
県庁と市役所に接する大分城は、地元では府内城という。大友氏が大分に守護所を置いて御府内といったことに由来する。
府内、府中、あるいは甲府(甲斐の府)・駿府(駿河の府)のように国名を一宇冠する、府の名がつく都市は多い。これらはいずれも中仙に守護所がおかれたことに由来する。
大分といえば大友宗麟を連想するが、大友氏が拠ったのは大分でも西山大友舘で、大分城ではない。
大分城は慶長2年から福原直高が築き始めた城だ。直高は
石田三成の妹婿で、豊臣政権末期では豊後水道と大分平野を掌握するため大分川の河口、荷落の浜で新城の構築に着手した。
国東半島と高崎山が波よけとなり、荷落の浜は領国の府となる絶好の地勢だった。3年後、城は一応の完成をみたが、福原氏は完成1ヵ月で所領没収。
徳川家康による、「大分築城は無益な工事で、領民を苦しめた」という理由からだった。
関ヶ原合戦への徳川方の布石でもあった。
中津城(大分県中津市二ノ丁)
福沢諭吉の出身地中津には、五層の大天守がそびえる。この五層天守は鉄骨コンクリート製で、本来あったものではなく、この模擬天守の建つ所には、本丸二重櫓が建てられていた。
昭和39年、折からのコンクリート天守復興ブームに便乗して、これも本来なかった二重の小天守と共に模擬新築されたものだ。石垣上より初層が大きく張り出し、二層目大入母屋上に三重がのる型で、五層目には廻縁が付す望楼天守である。
現在模擬天守と二重櫓は本丸にそびえるが、当時の中津城には天守は建築されなかった。本丸地区の石垣と掘は現存するが、城郭建築は明治初年にすべて解体された。
この模擬天守の設計者は、あろうことか萩城天守の外容を再現したのだ。萩城天守をそのまま中津城にもってくることにためらいを感じたのであろう、白亜総塗込めの萩城天守を下見板張に変更している……。
竹田城(大分県竹田市大字竹田宇岡)
地元ではもっぱら「岡城」と呼ばれる竹田城は、滝廉太郎作曲「荒城の月」の舞台として著名だ。城址には滝廉太郎の像が立ち、苔むした高石垣や、九重連山など九州山地を一望する景観が楽しめ、観光客の絶えることがない。ちなみに「荒城の月」の作詞者は土井晩翠で、作詩の舞台は会津若松城とも仙台城ともいう。
歌は廉太郎作曲によって愛唱歌となったが、弘前城の項でも述べたように、城と桜の結びつきから、散る美しさと武士道が、日本人の心の中でひとつながりのものとなった。その背景には軍国主義があったといわれる。
桜と城は本来なんら関係はなく、鎌倉期から幕末まで、城と結びつきの強い植物は松か竹であった。だから竹田城をはじめ竹と松を冠した城名が日本中にたくさんあるのだ。
人吉城(熊本県人吉市)
6.JR八代駅より約2時間、日本三大急流の一つ球磨川に沿って遡ると、急に大きな盆地と町が現われる。人吉町の中心街である。穏やかになった球磨川に洗われて、人吉城の石垣が塁々と残る。球磨川に面する石垣には舟着き場である石段と、舟を係留する台座が所々に置かれていて、人吉城が球磨川の水運と深いかかわりのあることを物語る。
築城は鎌倉時代、肥後に地頭職として入部した相良長頼によったと伝えられる。今日残る石垣は、18代義陽が建造を始め、代を継いで50年もの歳月を費やし、寛永16年に完成させたものだ。なお、城は球磨川の南岸に、城下町は北岸にあり、武家屋敷街と寺町は、城と同じ南岸ながら、その西側に形成された。
飫肥城(宮崎県日南市飫肥)
7.日南市の内陸部(山側)を妖肥といい、まるでタイムマシンで江戸時代に舞い戻ったような武家屋敷街、商家、町屋群が残る。NHKテレビ期の連続ドラマ「わかば」で連日タイトルロールに登場しているのが飲肥城大手門と武家屋敷街だ。
昭和40年代までは、東京や関西の人々の新婚旅行先といったら日南海岸が一番人気だった。
この南国人気で日南海岸に観光客があふれかえっていた頃、飫肥城には大手門をはじめ、書院などが次々と復元されたが、今はかつての人気はないようだ。しかし、妖肥城には全国的に珍しい、藩知事がいた本格的な数寄屋書院である像章館や藩校振徳厳が完存している。
中城(沖縄県中頭郡中城村宇泊)
8.琉球では城をグスク(グシク)という。中城城と記す出版物が多いが、この用法はおかしいのである。グスクは聖地である御嶽でもある。琉球では今も石で囲まれた区画、石塀で包まれた祠をグスクといい、石積みの間や巨石が重なる透き間から祖霊神であるニライカナイが出入りして、祈念するとこの石囲いの中に捕ると信じられている。
琉球の城はすべて石塁で囲まれ、集落ごとに必ず一つあって、今も拝所として、正月や祭祀の折には、先祖を迎えるため、集落の人々がグスクに詣でる。だから今の沖縄に旅して城を訪れる人は、城内や城の周囲に、足を踏み入れてはならない個所があるので、観光地以外の城址では特に注意をされたい。石垣上にのぼったりしてはいけないし、木々の扱いにも注意が必要である。
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