長野県・小諸城|城が町よりも低い珍しい穴城だった

更新日:

小諸城(長野県小諸市)

小諸城について
1. 小諸城(長野県小諸市古城)
小諸なる古城のほとり…で始まる島崎藤村の「千曲川旅情の歌」で、小諸城址はあまりにも有名だ。しなの鉄道小諸駅が城内にあって、駅のホームの隣には三の門が残る。この三の門は珍しい特色を備えている。普通、城へ入るには、坂か石段を登るか、平城なら堀を渡る。だが、小諸城址の場合、道を下って、窪地中央の三の門から入るのだ。まさに穴城に入るような錯覚にとらわれる。

この三の門の窪みをまっすぐに進むと深い谷間に入り、千曲川に出てしまう。二の丸、本丸へは門を入り、右手の高台に進まねばならない。小諸城には、このような深い谷状になった空堀が、城の左右に数条穿たれている。空堀を通路に用いるのは戦同時代の城の常套で、「空堀道」といい、入城者を確実にチェックできるシステムである。


城下町より低いところに城があった?
2. 小諸城は作家・島崎藤村の干曲川のスケッチで有名。干曲川に臨む断崖を背に当てた後堅田の城は、本丸のほぼ中央には野面積の石垣の天守台があり、天守は三層であげられた。

1554(天文23)年、もともとは武田信玄の軍師である山本勘助の縄張りだった場所を信玄が占領したことが小諸城の始まりとの説がある。そして1590(天正18)年に入城した仙石秀久によって大改修が行われ、いま伝えられているような城郭構造や石垣が築かれた。

最大の特徴は、本丸が城下町より低い位置にあることだ。普通、本丸は城郭構造の一番高い位置にあって見晴らしの良さを生かして敵を攻撃するものだが、小諸城は城郭構造自体が町より低く、天守でさえ城下町を見下ろせないような造りになっている。

そこから別名「穴城」とも呼ばれている。一見、不利と思われる谷間の城だが、その地形ゆえに守りの固い城だったことがわかっている。

小諸城の周辺は、浅間山の火山灰台地特有の深い浸食谷に囲まれている。城の両側は南北に走るその深い谷で遮られ、西には急流を誇る千曲川があり、守るべきは東のみという状態ができあがっていた。

そのため西の千曲川を背に本丸を築き、二の丸、三の丸と東に向かって徐々に下位の曲輪を配置している。特に二の丸はひょうたんのくびれのように狭くなっており、そこに複雑な屈曲などを造って大軍が一気に押し寄せられない工夫を施している。

念には念をといわんばかりに、南北の谷側には幅15~25メートル、深さ15メートルの空堀を数個ずつ掘り、徹底的に敵の侵入を防いでいる。このようなすり鉢状の構造は、じつは城塞都市として優れていたといわれるフランス・パリの町並みと似ている。

小諸城は、規模こそ小さいが機能的にはパリの城塞都市と同じように非常に理にかなった構造なのだ。しかも、自然をうまく生かした天然の要害だったのである。


この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!
ナビ
Page Top