福岡県・小倉城|キリシタンの影響でヨーロッパ築城技術の応用

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小倉城(福岡県北九州市小倉北区城内)

1.北九州小倉のシンボルは、なんといっても小倉城であろう。ただ、今そびえ立つ天守は、昭和34年の新装である。

小書の地に初めて城が築かれたのは鎌倉時代のこと。本州と九州を結ぶ、関門海峡を押さえる重要拠点のため、それ以前からも軍事拠点が置かれたという要衝の地である。

慶長5年(1600)の関ケ原合戦で徳川家康に従って軍功をあげた細川忠興は、豊前1国と豊後2郡を与えられ、豊前中津城に入りました。しかし中津は、城が小規模なうえに交通が不便でした。そこで北九州の要衝地小倉に築城を計画、同7年に建設にとりかかります。場所は響灘に臨む紫川河口の丘陵で、関門海峡を挟んで本州と九州を結ぶ要衝の地でした。

工事には、豊前領内の諸職人をはじめ、豊後・筑前・長門・周防・石見の諸国から大工・左官などが集められ、6年後にはほぼ完成しています。

最高所には本丸を置き、その北東部に4層5階の層塔型天守が建てられました。この天守は最上部の4層目が上下二段に分かれ、上段が下段より大きく張り出しています。4層目を上下に分ける部分には屋根がなく、白壁のままという独特なもので、「唐造」「南蛮造」とも呼ばれています。

また、城は響灘が大きく入り込む入江を利用して築かれているため、水堀が幾重にも巡らされて、海城としての様相も示していました。この天守は天保8年(1837)に焼失してしまいます。

現在の天守は、昭和34年に建てられた復興天守で、コンクリート造りですが、4層5階、この天守にはシアターなども設けられ、市民に開放されています。

この小倉城天守は北九州市役所の超高層ビルと競うようにコンクリート製で再築されている五階のつくり。最上階が大きく外側に出張っている南蛮造と呼ばれるつくりである。岩岡城、商松城、柳川城、八代城、熊本城の各天守も同様の南蛮造の天守であった。

ただ、再築された今の天守は南蛮造にはなっているが、二層目に大人母屋が、三層目に比翼千鳥破風がつくられ、かつての天守とは外容が異なっている。本来の小倉城天守は、いわゆる層塔式といわれる、飾りが一切なく最上層のみが黒色で突出する天守であった。


城下で起きた巌流島の決闘
ヨーロッパ築城技術の応用

2.小倉城は1608年、細川忠興によって築かれた城である。豊前(現福岡県)小倉の地は、鎌倉時代には既に緒方惟重が小城を築いたといわれ、勝山城、あるいは勝野城と呼ばれた。

小倉は、古くから瀬戸内海を通じた水上交通の拠点で、緒方惟重以後も高橋鑑種や毛利勝信がここを居城としたが、関ヶ原の合戦後、細川忠興が36万9000石を領して豊前に入った。忠興は当初中津城にいたが いまだ鎖国前のこと、スペイン、ポルトガルとの南蛮貿易を意識し、1601年には小倉城へ移った。

小倉城の縄張りは、忠興自ら行い、響灘に注ぐ紫川を外堀として利用し、その河口岸に築かれた。また下流をせきとめ、水量を一定に保った上で港を設けた。
築城の資金の多くは、小倉の豪商たちが出費し、今でいう民間活力を利用してつくられた。

その結果、水城に守られた国際貿易港とでもいうべき斬新な景観が形成されることになった。やや遅れて1610年頃完成した天守は、「層塔式南蛮天守」と呼ばれる特異なものであった。 

一層目は東西一五間、南北一三間という異例に大きいのに対して、四層目は働 東西七間、南北五間と異例に小さく、結果的に極端に先細りの天守だったことがわかる。これはヨーロッパの築城技術を応用したものといわれる。

忠興の妻ガラシャは、有名なキリシタンでもあり、二男興秋、長女お長、次女多羅も入信していた。また、忠興の弟興元もキリシタンであったという。忠興自身も入信こそしなかったものの、「tadaogui」というローマ文字の印章を使ったり、ポルトガルのカッパ風の高い襟とボタンのついた鎧下を用いた。築城についても、キリシタンを通じてもたらされた西欧技術が応用された可能性が高い。

またこの天守に付属して三層の着見があり、小倉港を行き来する船を監視したという。さらに本丸の中には、書院造りの城主の住居と茶室が設けられた。細川忠興は茶匠千利休の七哲と呼ばれる高弟のひとりであり、忠興自ら工夫をこらしたものだろう。しかし、天守は1837年、その他の建物も1866年焼失してしまう。現在の天守は1959年に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。

細川忠興、忠利二代にわたる造営によって、小倉城と城下町はほぼ完成した。しかし、1632年、細川家は所領換えとなり、熊本城へ移ってしまう。それと入れ換えに、明石城から小笠原忠真が入城、以後幕末まで小笠原家が代々城主を務めた。


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