柴田勝家が賎ヶ岳で秀吉に敗れた本当の理由が衝撃的
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賎ケ岳の戦い
1.徳川家康の「天下分け目の戦い」が
関ヶ原の戦いなら、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉だったが)のそれは、賎ケ岳の戦いだったといっていいだろう。
天正10年(1582年)6月、山崎の戦いで
明智光秀を破った秀吉は、その戦功を背景にして一躍、
信長の後継者として名乗りを上げた。正確にいうと、秀吉がそのような宣言をしたわけではないが、彼が信長亡きあと、織田政権の主導権を握ろうとしていたことは歴然であった。が、これに待ったをかけたのが、織田家のなかでは第一の重臣といわれる柴田勝家である。
以後、両者は織田家の勢力を二分して対立するのだが、最終的には、この
賎ヶ岳の勝利によって、
秀吉の天下が決まったといっていい。そういう意味からいえば、この戦いは戦国史のなかでも節目の合戦といえるが、ここでは、その歴史的な意味についてこれ以上語るつもりはない。この戦いに参加した、あるひとりの部将である。そうして、彼が後世に与えられた不名誉な汚名を晴らそう、というのがテーマなのだ。
その部将というのは佐久間盛政のこと。従来の説では、賎ヶ岳の戦いの勝敗を分けたのは、勝家方の部将、盛政が、勝家の命令をきかなかったからだとされてきたのだが、はたしてこれを事実としていいのだろうか。
結論からいうと、盛政がこの敗戦の責任を押し付けられたのも、誰かを庇ったためだったのだ。が、まずは盛政の濡れ衣を証明することである。そのためにも、この賎ヶ岳の戦いが、実際はどのようなものだったのかを知る必要があるだろう。
実をいうと、近年、長浜城歴史博物館が公開した、ある手紙の出現によって、この戦いは大きな見直しを迫られているのである。また、戦国時代の合戦そのものについても、現在、気鋭の歴史研究家たちの丹念な調査や研究によって、これまでの常識が大きく変わりつつあるといっていい。
これらの新しい情報を取り入れることによって、これから復元するこの戦いの様相は、たぶん、ちょっと目新しいものとなるはずである。
秀吉の「とおせんぼ」
2.
越前の柴田勝家率いる2万の軍勢が、北近江に現われたのは天正11年3月上旬のことであった。そうして、勝家側は、3月の中旬までには北国街道を見下ろす峰々の要所に布陣を終えている。
これに対して
秀吉も、すぐに7万5000といわれる軍勢を率いて北近江に入った。が、勝家側は峰々に堅固な要塞を築いて、秀吉側からの攻撃を待ち受ける構えを見せていた。すると秀吉は自軍の最前線を天神山から、南へ約1200メートル後退させて、堂木山と佐祢山を結ぶラインに変更したのである。
ところで、この賎ヶ岳の戦いについては、両軍が北近江の山岳地帯に堅固な陣地を構築し合って、約1ヵ月にわたってにらみ合いを続けた、ということが知られている。でも、なんでそういうことになったのかという素朴な疑問に答えてくれる歴史書は、これまであまりなかったのではないだろうか。
しかし、これはとても重要な問題だから、ぜひ、ここで確認しておいていただきたい。
両軍が布陣した峰々の間に一本の道が通っており、この道が北国街道である。山岳地帯の間を走るこの道は、柴田勝家の本拠地、越前と近江を結ぶ重要な幹線道路のひとつなのだが、これを封鎖して、勝家をいわば「とおせんぼ」しようとしたのが秀吉であった。そして、いま、その封鎖を排除しようとしているのが勝家なのである。
実は最近、この「封鎖」に関わる大発見があった。それは北国街道を秀吉側が「とおせんぼ」していたことを裏づける証拠といえるものである。
そもそも、この賎ヶ岳の古戦場には、いまも両軍が築いた陣地が数多く残っているのだが、これまでは各山上に築かれたこれらの陣地ばかりに目がいって、山々に挟まれた平地の部分は、ほとんど顧なられなかったといっていい。
しかし、歴史研究家の藤井尚夫氏は、賎ヶ岳七本槍のひとりであった脇坂安治の子孫に伝わった古図の平地上に、柵が描き込まれていることから、ここになんらかの構造物があったのではないかと考えた。そうして、現地調査によって、この平地部分に築かれたいくつかの土塁の遺構を発見したのだが、藤井氏によると、土塁の当初の高さは約2メートルもあり、その下には約2メートルの堀もあった可能性があるというのである。また、古図には柵が描かれているから、土塁や堀に加えて、きっと柵もあったに違いない。
つまり、この発見によって、秀吉の「とおせんぼ」が、かなり大掛かりなものであったということが想定されるのである。
さらに、藤井氏が発見した土塁の遺構から、当時の柵、堀、土塁の位置を推定してみると、かなりの数になるので「これで勝家めも、めったなことでは通れまい」と、安心して戦場をあとにしたものと思われるのである。
従来の説が伝える勝家の、その場限りの作戦
3.4月16日、秀吉は、抱えていた三つの戦線のうちのひとつ、美濃の岐阜を攻めるため、大垣城へ入った。
すると、またしても秀吉の動きを見計らったように、勝家側は、4月19日の深夜に行動をおこすのである。
その行動というのは、秀吉側の築いたあの堅固な封鎖線を迂回して、後方から奇襲攻撃をかけるというものであった。
ところで、これは、完全に秀吉の裏をかいた作戦といっていいのである。というのも、秀吉の頭のなかの構想は、再び(第一次決戦のときのように)勝家の軍が、封鎖線の前面に押し出してくるというイメージにとらわれていたからである。さて、話を勝家側の行動に戻すと、この迂回奇襲部隊を率いたのが佐久間盛政だった。そして、結果からいえば盛政は、この奇襲を見事に成功させている。きっと、この盛政の働きは勝家の期待以上だったのではないだろうか。彼は、秀吉側の中川清秀の守る大岩山砦を落とし、清秀ほか約1000人の守兵を全滅させたばかりか、岩崎山の砦を守る高山重友までも敗走させたのである。しかし、従来の説では、このとき勝家は盛政に対して、実に不可解な命令を与えていたことになっている。その命令というのは、「奇襲が成功したら、すぐにこちらに引き上げてくるように」というものである。
ところが、この奇襲戦の勝利に驕っていた盛政は、勝家の命令を無視してその場に留まっていたというのだ。そうして、勝家軍から突出していた盛政の部隊は、翌日、予想外のスピードで戦場に駆け戻ってきた秀吉本隊の標的となってしまうのである。最終的には、これが原因で勝家の軍は総崩れとなって賎ヶ岳の戦いに敗れた、というのが従来の説明である。
しかし、従来いわれてきた勝家の作戦や、盛政に与えた命令については、どうも、納得できないことが多いのである。 例えば、この作戦は、岐阜にいる勝家の同盟者を救うために、秀吉を戦場に呼び戻そうとしたものだ、という説がある。しかし、それなら、わざわざ迂回して奇襲攻撃をかけるまでもなく、勝家が封鎖線の前に軍を進めるだけでじゅうぶんだったのではないだろうか。
また、血気盛んな若い盛政が進言したこの作戦を、勝家が内心では危ぶみながらも、反対しきれずに認めたのだ、という説もある。が、認めながらも勝家は、「その代わり、攻撃したらすぐに戻ること」という条件をつけたというのだ。これなどは、勝家の中途半端な態度が際立つ話である。もし、それが本当なら、なるほど、勝家も負けるはずだ、と、納得できる仕組みになっているが、どうも、これは盛政の部隊が秀吉に狙われた、という事実に後づけされたストーリーという気配がしないでもない。
だいたい、せっかく苦労して敵の砦を占領しても、そのあとそこから引き上げてしまったら、再び奪い返されて、その地にもっと強固な敵の砦ができあがるだけであろう。そんな、その場限りの小さな勝利のために、険しい山を越えたあと、命がけの戦闘をして、やっとの思いで敵の砦を占領したら、さあ、退却。などという、そんな命令があるだろうか。
と、これらが従来の説明のひっかかる点だったのだが、ここで、もう一度、これまでみてきた両軍の軍事行動の意味を思い返してみると、これらの説が、実は、信ずるにたりないものであった、ということがはっきりしてくるのである。
まず、秀吉側は、北国街道を南下しようとする勝家の軍を「とおせんぼ」するために、堅固な封鎖線を築いた。
ならば、これに対して勝家側がとるべき軍事行動は、あくまで、この封鎖線を排除するということだろう。
だとしたら、これまでの説が伝えていた勝家の作戦は、本来の目的からはずれているばかりか、敵の封鎖をもっと強固にさせるかもしれないという、かえって目的に矛盾する結果を招きかねない作戦である。おまけに、危険なわりには、得るものが少なすぎるような気がするのである。こんな作戦を、はたして百戦錬磨の勝家が選択するだろうか。どうも、これは、戦のシロウトが創作したストーリーのような気がしてならない。だからきっと、こんな陳腐な作戦になってしまったのだ。
ここで結論をいってしまえば、勝家がこのような作戦を立てたはずがない、というのが見解である。なかでも、盛政に出したという「攻撃したらすぐに引き返せ」という不可解な命令などは、もっとも信じがたいものである。
ということは、当然、盛政が勝家の命令をきかなかったという事実も、なかったのだ。
ちなみに、この勝家の奇妙な命令を伝えているのは『太閤記』と、この『太閤記』の内容をふくらませただけの『新撰豊臣実録』という二冊の軍記物語なのだが、どちらもお世辞にも良質な史料とはいえない書物である。
というわけで、この、勝家が「攻撃したらすぐに引き返せ」という命令を出していたという説は、その根拠となっている史料の信憑性から考えても、もはやゴミ箱行きにしてもかまわないのではないだろうか。
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