京都府・福知山城|信長の命令で光秀がスピード工事で築城した
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福知山城(京都府福知山市字内記5番地)
信長の命令で行われたスピード築城とは?1.
京都府北西部の丹波盆地に位置する福知山に、初めて近世的城郭を築いたのは織田信長の武将であった
明智光秀です。天正7年(1579)のことでした。場所は盆地の横山といい、城は由良川と土師川の合流点近くの丘陵上に建てられました。旧横山城を攻略して城を修築し、福知山城と改名したのです。
築城にあたって、付近の集落の墓石や石塔を集めて石垣に用いました。現在も、天守台や石垣に五輪塔、宝筐印塔や梵字刻印の石がはめこまれているのを見ることができます。
慶長5年(1600)には有馬豊氏が入封、この時代に堀と土居に囲まれた「総構え」の城郭が完成しました。
福知山城の天守は、大天守・小天守・続櫓・南御門・菱櫓から構成されています。居住性を備えた初期望楼型の特徴を示していましたが、明治政府の近代化の波のなか明治4年(1871)に取り壊され、わずかに銅門・番所・石垣が残されました。
昭和60年に2層2階の小天守と続櫓が、翌61年に3層4階の大天守が完成しました。内部は郷土資料館として展示公開されています。
本丸・天守の東側にある井戸は、直径2.5メートル、深さ50メートルで、日本一の深さです。
地下の水脈まで掘り下げており、今も清らかな水をたたえています。
福知山城は、丹波を押さえる上で交通・軍事上の要である。京都の北にあって山陰地方を押さえる上でも重要な位置にある。
福知山城は、中世に横山城と呼ばれていた時代、横山氏が居城としていた。天正7年、織田
信長は丹波・丹後から山陰方面の制圧を
明智光秀に命じた。光秀は横山城を攻略し、現在復元されている天守や残存する本丸周辺の石垣を構築、城を福智山城と改めた(のち福知山に変わる)。
光秀は藤木椎兵衛、明智秀満を奉行、城代として築城を行った。二層の大入母屋に、三層廻縁高欄をめぐらした形で造営された天守は、安土城、大坂城と並ぶ安土桃山期を代表する建築であった。小天守や菱櫓が有馬氏時代に付け加えられたらしいが、古図に基づいて外観を再現した今日の天守は、実に変化に富む。
明智光秀が本能寺の変で主君の織田信長を裏切るのは誰もが知る史実だ。その謀反の直前に、皮肉にも当の信長の命令により超スピード工事で造った城があるのをご存じだろうか。それが、京都府福知山市に建てられた福知山城だ。
当時、福知山には室町時代から残る簡素な横山城があったが、丹波地方を攻略した光秀は、1579(天正7)年に
信長の命で徹底的に改築している。
それまでにも比叡山麓の坂本城や丹波亀山城などを築城してきた光秀の城造りには定評があった。
光秀はそのノウハウを活かして、福知山城にも堅い守りと、得意の鉄砲戦が存分に展開できるように考え抜いた設計を行ったのである。
とはいえ、あのせっかちな信長の命令で始まった城造りだけに工事に時間はかけられない。そこで、
天守台の石垣には自然石を加工せずにそのまま積み上げる「野面積み」「乱石積み」という大胆な手法が採用されている。
さらに、
石垣の材料として墓石や石仏までも利用するという急ぎようだった。いまも残る福知山城の石垣には、実際に墓石が組み込まれているのを見ることができる。
そんな光秀の苦労の末に、二重の掘と三層の天守をそなえた重厚な福知山城が完成したのだ。
ところが、光秀は1582(天正10)年に本能寺の変を起こし、追い詰められて自害してしまう。
福知山城が光秀のものであったのはわずか3年ほどでしかなかったのだ。
一方で、福知山城自体はその後も城主を変えながら生き残る。明治時代の廃藩置県により一度は取り壊されてしまうが、1986(昭和61)年に再建。
福知山市中心部の小高い丘にそびえる天守は、街のシンボルとしていまも人々から親しまれている。
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