築城名手はどんな人?意外な共通点があった
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城をつくったのはどんな人
いまもなお多くの起業家が戦略論として愛読する孫子の「兵法」は、戦国時代から戦の参考書として重宝されてきた。同様に、防衛論として参考にされてきたのが墨子の思想である。墨子は平和主義者として非攻説を唱え、著書『墨子』のなかでも「備城門」など城を守るための技術について述べている。
このような中国の戦略と防衛を日本に取り入れたのが軍学という学問で、『武教全書』を著した山鹿素行などが有名である。こういった軍学を学び、大名の参謀として攻守の戦略を企てた人々が軍師である。名軍師として
武田信玄についた山本勘助や上杉景勝の家臣、直江兼続などは有名である。
軍師は、築城についてもアイデアを出す役割を担っており、城の立地、建物の配置、城門の工夫などを大名に進言していたようだ。特に弘前城の沼田面松斎や浜田城の滝川一学などは、築城専門の軍師として名前が残っている。
優れたプロデューサーである軍師は、優秀な職人を見抜く目を持っていたようである。主に城大工には宮大工から登用された者が多く、熱田神宮の宮大工で
安土城を築いた岡郎叉右衛門、徳川の専属大工頭であり、
江戸城や駿府城、名古屋城から増上寺、日光東照宮などまで手がけた中井正清などが城大工の頭として名を残している。
さらに石垣積みには専門集団が関わっている。
朝鮮からの渡来人で、古墳の石室などを手がけていたといわれる近江(滋賀県)の穴太衆である。
こういった優秀な軍師、技術と統率力を備えた大工頭だが、
石垣など個別部分を担当する職人集団らをいかに抱え込むかが、戦国の名将の腕の見せどころでもあった。彼らを一堂に会することができたとき、名城が生まれるのだ。
壮大な石垣を備えた近世の城郭を築いた「築城名人」として知られる大名には、加藤清正(熊本城)を筆頭に、藤堂高虎(宇和島城・伊賀上野城)、細川ガラシャの夫としても知られる細川忠興(小倉城)、山内一豊(高知城)、加藤嘉明(松山城)、堀尾吉晴(松江城)、丹羽長重(白河城)などが挙げられる。
これらの大名には、ある共通点がある。じつはすべて織田・豊臣家に仕えてから徳川についた「外様大名」なのである。織田
信長、豊臣
秀吉ともに、安土城や大坂城など城の建築・改修に熱心だったため、彼らに仕えていた大名たちは、天下を取るための築城のノウハウを心得ていたのだ。
特に加藤清正の石垣は有名で、下方の緩い傾斜から上に行くに従って反り返り、容易に侵入できないような設計となっており、難攻不落の城であることが江戸後期の随筆「甲子夜話」にも綴られている。
ただ、この築城名人たちのその後は必ずしも安泰だったわけではない。主君を転々とすることに長け、徳川に取り入った藤堂などは特殊な例で、加藤清正の場合は本人の死後、幕府の命令により改易(城と領地を奪われ、大名としてクピになること)された後、お家断絶の憂き目に遭い、熊本城は細川忠利に明け渡されている。
加藤嘉明の家系も家老の謀反の責任を取らされて改易、堀尾家は嫡子がなかったため直系は三代でやはり改易となった。
また、山内、丹羽などの有力大名も江戸から遠い地の領主であったから、徳川を脅かすほどにまでは至らなかった。織田・豊臣系の大名たちは築城で利用されたあとに城と領地を奪われ、外様の立場を思い知らされたのである。
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