岡山県・備中松山城|交通の要所で山の山頂にある現存12天守
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備中松山城(岡山県高梁市内山下1)
備中松山城について
承久3年(1221)における承久の乱の戦功により、備中国有漢郷の地頭に任ぜられた秋庭重信は、仁治元年(1240)に高梁川沿いの臥牛山(大松山)に城を築きました。臥牛山とは、大松山・天神丸・小松山・前山4丘陵の総称です。元弘元年(1331)、備中守護高橋宗康が、現在地の小松山に移築、名を松山と改めました。
戦国時代には、毛利・尼子氏らの勢力抗争の拠点となり、室町時代最後の城主となった三村家親は、天正3年(1575)毛利氏に攻められて自刃しています。
関ケ原合戦後は、小堀正次・政一親子が入封しました。政一とは、茶人で築城家、庭園造りの名人遠州のことです。江戸時代は池田・水谷・安藤・石川・板倉各氏が城主となりました。忠臣蔵で有名な、赤穂藩城代大石良雄が2年間、城代として在城したこともあります。通常城主は、山麓の居館に住んだようです。
現在山上の天守と二つの
櫓は、国の重要文化財に指定されています。天守は明治維新後も破却を免れ、昭和15年に解体修理が行われています。構造は二層の本瓦葺の入母屋造、東南側には唐破風出格子窓があり、小さいながらも威厳があります。
山城のため、麓から歩くしかありませんが、山頂への道に石垣が残っています。歩いていると突然石垣が出現するので、びっくりします。
吉備地方を中国山地に向かうと高梁川に沿って高梁盆地がある。小さな盆地である瓦葺きの民家や寺社が川筋に続き、城下町独特の佇まいである。城は川と谷間を一望にする臥牛山(海抜431メートル)に築かれた。
平成15年(2003)、備中松山城の景観は大きく変わった。本丸のすべての櫓と門、塀が本丸石垣上にびっしりと復元されたのである。城郭ファンもここまで復元されるとは思っていなかった事業で、備中松山城の人気は益々高まった。
山頂に天守が残る。二層二階で入川の付櫓を含めると内部は三階づくり。天守建築としてはあまりに低い。これは山城山頂にある天守だからだ。天守建築の展望能力、司令本部の主目的からいって、山城であれば三層や五層の高層建築は必要がなかった。当城は江戸時代では珍しい山城として知られるが、同じ近世の山城だった鳥取城、笠間城と共に数少ない二層天守であった。
備中松山城を舞台にした戦の中で、最も血を多く流した戦であるとされる「備中兵乱」。この戦は備中松山城城主・三村元親の一族への義を貫いた戦いでもあった。
永禄9年(1566)、元親の父・家親が、備前を支配していた宇喜多氏により暗殺される。元親は父の弔い合戦を仕掛けたが大敗し、一族は衰退。元親の、宇喜多氏への報復の思いはさらに募ることになる。
そんな中、元親はかねてから従っていた毛利氏と宇喜多氏の和睦の事実を知り、多勢に無勢を知りながらも、ついには毛利氏に反旗を翻す。そして備中松山城に籠もった元親は、長期に及ぶ激戦を繰り広げた後に自害する。
こうしてもたらされた、一族の滅亡。
これは悲運などではなく、不義の毛利・宇喜多氏に一矢を報いられるならば死すら本望と、城主・元親があえて選んだ誇り高い結末だったのではないだろうか。
標高430メートルの臥牛山頂上付近に建つ天守は、現存12天守中唯一の山城です。戦国期以来続く城郭ですが、
関ヶ原合戦後、備中代官が置かれて小堀正次、政一父子が赴任。
ここから近世城郭化が進められ、天川3(1683)年、水谷勝宗によって3年がかりで改修され今の
天守になったと言われています。ふもとの高梁の町から急坂の自然遊歩道を登っていくと、天守までは40分くらい。
高さ10メートル以上の切り立った岩壁がそびえて、途中には「野猿に注意」などという看板も出ているような、なかなか厳しい道ではありますが、それだけに天守に到達したときの気持ちよさもまた格別です。
平成6(1994)年からは、五の平
櫓、六の平櫓、土塀なども復元されました。
藩のお取りつぶし
こんな
急峻な山城でありながらも、この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要所であったためか、歴史上の人物が関わったことでも知られています。
自然遊歩道の途中には、『忠臣蔵』で有名な、播磨赤穂藩の筆頭家老・大石内蔵助が、元禄7(1694)年、この城を訪れた際に腰掛けたという「大石内蔵助腰掛石」も残されています。
備中松山藩に跡取りがなく、藩がお取りつぶしとなったときに、赤穂藩藩主の代役として内蔵助が城受け取りのためにこの城を訪れたと言われているのです。ところが、その7年後の元禄14(1701)年には、その赤穂藩自身がお取りつぶしになり、内蔵助は、今度は城を明け渡す役を言いつかります。
皮肉なようですが、このとき、備中松山藩での経験があったために、彼はその任
務を整然と行えたのだということです。
お城もさることながら、ここはふもとの城下町である高梁の町も素晴らしいのです。江戸時代と変わらない武家屋敷の土塀などを残した町並は、いつ来てもいいものだなあと思います。
備中代官として、この城の近世城郭化に貢献した小堀政一は、茶人・小堀遠州としても知られる人物。豊臣
秀吉の弟・秀長は
千利休に師事したことで知られていますが、秀長の小姓であった政一は、そんなことから秀吉への給仕を務め、利休にも出会い、後に秀吉直参となって移った伏見で古川織部に茶道を学んだと言われています。彼の流れは今も遠州流として受け継がれています。
見どころ&城情報
現存みどころ 小天守
見どころは山城大手口の高石垣と、かつて天守と廊下塀で結ばれていた天守背後の二重櫓だ。この二重櫓は大松山方面への見張りを兼ねる小天守でもあった。なお大手口石垣手間には土塀も残る。
イベント 備中たかはし松山踊り
毎年8月の3日間、備中高梁駅前大通りで開催される松山踊り。備中松山藩主水谷勝隆の時代に、五穀豊穣と繁栄を祈願して踊った地踊りがはじまりだといわれている。老若男女で賑わう祭りは、岡山県で最大級だ。踊りのコンテストや氷の彫刻展など催し物も豊富。
備中松山城
国重要文化財 天守、本丸、二重櫓、土塀
別名 高梁城(たかはしじょう)、小松山城(こまつやまじょう)
分類 山城
築城年 慶長11(1606)年
築城主 小堀政一
主な城主 小堀氏、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏など
岡山県高梁市内山下1
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