1.奈良県・大和郡山城|大改修で石垣が足りずに代用したものとは
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大和郡山城(奈良県大和郡山市城内町)
石垣のなかにさかさになった地蔵がいる?
数百年の時を経ていまもなお、芸術作品のように見事に積まれた
石垣を見ることができる城もある。
ところが、その石垣のなかにあろうことか地蔵がさかさまの姿で埋め込まれている城があるのをご存じだろうか。
奈良県大和郡山市にある大和郡山城は、1580(天正8)年、織田
信長に仕えた筒井順慶によって築城が始められている。その後、1585(天正13)年に豊臣
秀吉の弟である秀長が城主となり、大和郡山城の大改築に取りかかっている。
大和・和泉・紀伊の100万石の地を治めることになった秀長は、それにふさわしい巨大な城を夢見た。そこで新たに城を築くほどの大がかりな工事を行ったのだ。
大和郡山城には新たに高層の
天守や本丸、そしてさまざまな建物が次々と造られていく。ところがこの大和地方は石材に乏しい土地だった。そのうえ、この大規模な工事でとうとう石垣に使うための石が足りなくなってしまう。
そこで、付近の寺院から石地蔵や庭石、五輪塔などが急きょ集められ使われることになったのだが、そのときに石垣造りに使われた地蔵が天守台の石垣に逆さに組み込まれたままいまも「さかさ地蔵」として残っているのだ。
このように周辺の村や寺社の石仏や墓石が石垣など城造りに用いられることを「転用石」といい、織田信長やその家臣の築城においてたびたび利用されている。
ちなみに、秀長の築いた天守は現存しておらず、地震で倒壊してしまったとも伝えられている。これも天守台に使われてしまった「さかさ地蔵」の怨念なのだろうか。
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