1.宇佐美定満は上杉謙信を補佐するなぞの多い軍師
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宇佐美定満
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運8
謙信に軍師として仕えた宇佐美定満
江戸時代に流行した軍学のひとつに、
上杉謙信の戦いを基礎とする越後流軍学があった。その大系を確立した人物が、謙信に軍師として仕えた宇佐美定満だとされている。
しかし、謙信といえば自ら軍勢を陣頭指揮して戦うイメージが強い。この天才的軍略家に軍師の存在があったことはあまり知られていない。
謙信は幼い頃に出家させられたが、越後守護代を継いだ兄・長尾晴景が惰弱で家臣から支持されず、急逮、その後継に祭り上げられることになる。しかし、いかに謙信とはいえ、いきなり軍略の才を発揮できるだろうか?
それまで俗世と離れて僧の修行をしていた人物だけにやはり、最初は軍略や政略を補佐する人物が必要だったはずだ。その役目を担い、
若き越後の当主の軍師となり、また、軍学の師匠として働いたのが定満だという。
この男に関する資料は少なく謎の部分が多いのは、武田氏の軍師・山本勘助と共通している。
しかし、勘助のように流れ者の軍事技術者ではなく、古くから越後に土着する家柄。琵琶島城(現新潟県柏崎市)の城主であり、越後守護・上杉氏に仕えていたという。越後を纂奪した謙信の父である長尾為景とは敵対関係にあったが、為景の死後は晴景に臣従するようになる。
しかし、家中で好臣が大きな顔をするのに嫌気がさして、やがて聡明で私欲がない謙信に越後の将来を託し、希望を見いだした。
定満が謙信と出会った頃は、すでに50歳を過ぎた老齢。15歳の謙信は孫のようなものだった。それだけに、なおさら愛しく思ったのだろう。定満は謙信を必死で補佐し、また、乱世で生きる術を教え込んだ。
「孫子」をはじめ兵法の書に精通し、多くの軍学書をまとめた理論家肌の定満は、軍学の師としても最適の人材だっただろう。
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