織田有楽斎は信長の弟だけど武将としても人間としてもダメダメ

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織田有楽斎

本能寺の変で一目散に逃走世間に悪名を馳せる
1. 冷酷度4
腹黒度5
変態度4
鬼畜度3

織田有楽斎は茶人としては超一流だが、武将としては「これがあの信長と同じ遺伝子をもつ男か?」と疑うほど、かなりショボい。

また、人間的にもかなり問題のある人物ではある。彼に対して誰もが思い描くイメージといえば、やはり裏切りの三文字だろう。

彼の裏切りについては、大坂の役において豊臣方として籠城しながら、じつは徳川方に内通したスパイだったという有名な話がある。しかし、前科はそれだけではない。

織田信長の勢力が頂点に達した時期、その弟でありながら、戦場で目立った働きもなく武将としては失格の烙印を押されていた彼は、実力主義者の信長からも軽んじられて日陰者の境遇。

信長の嫡男・信忠の下で地味に働いていた。一般大衆はその名さえ知らぬ者が多かった。ところが、本能寺の変がおこると、その名は広く世間に知られるようになる。

明智光秀の大軍が京に乱入してきた時、彼は甥の織田信忠に従って二条城で籠城した。城とはいえ館のようなもので、防御は無いに等しい。兵力も少なく、明智軍の猛攻のまえに落城は必至。ここで彼は信忠に自害を勧め、「俺も腹を切る」と言った。

しかし、その舌の根も乾かぬうちに、信忠一人を自害させて自分は密かに二条城を脱出。さらに安土から岐阜へと逃げまくって、なんとか助かっている。戦はヘタクソだけど逃げるのは上手。しかし、この行為に京の人々は呆れた。

織田の源五は人ではないよお腹召されておいてわれは安土へ逃げる源五むつき二日に大水出て織田の源なる名を流す。 とは、当時の京で流行った彼を揶揄する狂歌。無名だった信長の弟は、にわかに裏切り者として悪名を馳せることになる。


大阪城にはスパイとして潜入偽りの和平を画策する
2. さらに、裏切りは止まらない。信長の次男・織田信雄に仕えたが、小牧・長久手の合戦後、信雄が改易されると秀吉の御伽衆(相談役)となり再就職。さすがに戦国の世を生きる男、主君を次々に替えて生き残りを計る術を知っている。

さらに、関ケ原合戦では東軍に属し、徳川政権下でも大和国内に3万石の所領を得る小大名としてシブとく生き残る。これで豊臣家との縁も切れたと思いきや、大坂の役がおこると大坂城に入城してきた。

豊臣秀頼の母・淀殿は彼の姪でもある。彼女は叔父である彼を頼りにして後見役として、大坂方の幕僚に加えた。その発言力は強く、大野治長とともに大坂方の主導的立場にあった。

しかし、この時点で彼はすでに徳川方と内通していた。そもそも大坂城に入ったのは、家康に命じられて城中をスパイするためだった。指導部にスパイが入り込んでいては、重要機密はすべて徳川方に筒抜けである。

また、堺で捕らえた今井宗久などを釈放するなど、徳川方の有利となる画策を多々おこなっている。

やがて徳川方の大坂城への攻撃が始まるが、強固な防御が機能して大坂城がなかなか落ちない。そこで彼は淀殿や秀頼に強く進言して和議を実現。家康の謀略で城の外堀が埋まると、「これで任務は完了」とばかりにさっさと城を退去。家康と面会して城中の内情は報告している。

この後、丸裸になった大坂城は落城するのだが、堅牢な巨城を攻略できたのはスパイである彼の働きによるところが大きい。戦後、彼はその恩賞に本領を安堵され、悠々自適に趣味の茶道を楽しんだという。1万石の隠居料もスパイで得た恩賞か?



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