1.長野県・上田城|徳川軍を翻弄した城も遊郭になっていた
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上田城(長野県上田市二の丸)
上田城について
上田城は、天正10年(1582)ごろに築城に着手し、翌年にはほぼ完成していたと考えられています。同13年には徳川軍7000に攻められましたが、これを2000の兵で迎え撃ち、城主真田昌幸による縦横の戦略で徳川軍を壊滅させました。15年後の関ケ原合戦に際しても、3万8000の徳川秀忠軍を食い止め、合戦に間に合わなくしたことは有名です。
城地は千曲川の段丘を利用しており、本丸は千曲川畔の崖上に構えられ、二の丸・三の丸が設けられました。ただ現存の上田城は真田氏以後に拡張されたもので、徳川軍を迎え撃った場所は、西側に遺構をとどめる尼ケ崎城であったともいいます。
現在は櫓が3基と、石垣・士塁・堀、そして本丸跡に、背後の太郎山まで続くとされる抜け穴の入り口ではないかといわれる井戸が残されています。平成6年に北櫓と南櫓の間に櫓門が復元されました。周囲の緑と調和して落ち着いた雰囲気を漂わせ、市の新しいシンボルになりつつあるようです。
二の丸には市立博物館があり、上田藩に関する資料や城主であった仙石氏・松平氏の資料が展示されています。また城の東側には、真田幸村の活躍を描いた小説家・池波正太郎にちなむ文学館もあります。城の北側にあたる柳町には、江戸時代の町並みも残されていて絶好の歴史の散歩道といえます。
上田市の東、小県郡真田町は真田氏が本拠を置いた苗字の地である。武田信玄に屈していた真田昌幸は、武田氏滅亡と共に自立、戦国大名となり、上野国西部から信濃国小県地方を支配、豊臣大名にとり立てられた。
天正11年(1583)、昌幸は真田本城と真田舘を廃棄し、千曲川の蛇行地に接する伊岫山と呼ばれる丘に城を築き始める。昌幸のこの上山築城は、上野で敵対する後北条氏と、信州支配をもくろむ
徳川家康が、天正10年に同盟を結んだことによる危機感からだ。
完成間近い上川城を、天正13年8月、徳川勢が7000の大軍で包囲。守るは昌幸以下2000。北条と徳川の同盟に対し、昌幸は越後の上杉景勝と結び、徳川勢に対したことから、徳川勢の来襲となったのだ。真田方の守りは堅く、徳川方は1300人が討死に、上田城は死守された。
遊郭になった城があった?
2.武士の世の象徴でもある城が、なんと遊郭になってしまったという史実が残っているのをご存じだろうか。
長野県上田市にある上田城は、真田昌幸により1583(天正11)年に築城されている。
干曲川に臨む尼ヶ淵にそびえ立つ段丘上に築かれた城。断崖を背にして本丸を設け、それを囲んで二の丸があり、古城の小泉曲輪が二段、屋敷構がふたつあった。
この上田城は、
名将として名高い真田昌幸が2度にわたり攻め込んできた徳川の大軍を退けた上田城の戦いでも有名で、「好きな城ランキング」では必ず上位に顔を出すほどの名城だ。そんな武勇名高い上田城が、遊郭になってしまったのである。
明治政府は1873(明治6)年に廃城令を出し、全国に残る城の取り壊しを命じている。そこには、徳川幕府の支配の象徴ともいえる城を取りつぶすことと、そして城自体が明治政府に反発する旧士族の反乱の拠点にならないようにという意図があったのだ。
また、城のなかには敷地ばかりか建物が民間に売却され、移築されてそのまま使われることになったものもあった。
そしてこの上田城の本丸に7棟あった
櫓のうち2棟が市内の遊郭に払い下げられ、移節された櫓慣が遊郭の建物として使用されたのである。
移築された城に一般人が住むというばかりか、遊郭として使われたなどというケースは全国にも類を見ない。
ちなみに、その後ふたつの櫓は市民運動で買い戻され、再び上田城に移築されている。たび重なる戦乱からやっとの思いで城を守った真田家の人々もさぞ安心したことだろう。
そして現在も、再建されたほかの建物とともに上田城跡公園のなかに見ることができる。
徳川軍を翻弄した上田城のしかけとは
3.長野県上田市にある上田城は、1583(天正11)年に真田昌幸が築いた城だ。千曲川流域に面した要害の地にあり、守るだけでなく、敵を攻めるのにも適した造りになっていたという。
この上田城を舞台に、徳川軍と2度の攻防戦が行われた。1度目は徳川軍7千に対して真田軍は約2干の兵、2度目は3万8千もの徳川軍を相手に、数千の兵で戦ったのだが、いずれも大軍を擁する徳川が少数の真田軍に翻弄される結果となった。
数の上では圧倒的に不利な真田軍が、なぜ徳川軍を破ることができたのか。それは、知略に長けた真田昌幸が城にさまざまなしかけを施していたからだ。
籠城の構えをとる真田軍を前に、徳川軍はやすやすと城の外郭まで入り込むことができた。しかし、これが昌幸の作戦だった。
徳川軍が城壁の近くまで来たとき、一斉に城内から鉄砲をあびせかけ、矢を射たのだ。慌てて退こうとしても、道のあちこちに作られている柵が邪魔をして、思うように動けない。川沿いに退路を見つけたものの、そこで昌幸はせき止めていた川の水を流し、逃げる兵を水攻めにしたのである。
徳川軍が混乱している隙を突いて城内から兵が斬り込み、あちこちに潜んでいた伏兵も背後から襲いかかった。こうして徳川軍は大きな痛手を負って、敗走したのである。
2度目の軍を率いたのは、関ケ原の合戦に赴く途中の徳川秀忠だった。前回の屈辱を晴らすべく、上田城の攻略に挑んだものの、昌幸の作戦にまたしても敗れたのだった。ちなみに、上田城で7日も足止めをくった秀忠は、結局関ケ原の合戦に間に合わず、家康から大目玉をくらったと伝えられている。
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