藤堂高虎は生涯で八度も主君を変えたその理由に迫る
更新日:
藤堂高虎の歴史と名言集(藤堂高虎遺訓)
藤堂高虎について
1.
藤堂家は近江国尤上郡で代々在地の藤堂村にある小領主であった。高虎が後世天下一の名築城家と呼ばれるのは、織田信長の甥・信澄につかえ、大溝城や安土築城に関わったのが始まりである。
高虎出身地には、のちに江戸城作事大工頭の甲良家や湖東の石工職人集団があり、地縁的にみて名築城家になる環境が揃っていたのだ。
秀吉の死後、家康の側に仕えるが、豊臣家滅亡の後墓が荒れ果てているときくと、修繕費をだして改善させた。
血筋のよくなかった高虎は実力でのし上がるしかなく、軍事面では命を惜しまず戦う勇気。
津藩の幕末まで続く藩祖として行政を整えた才能。何よりも各地の築城を任せられ、数々の名城を築いた建築家として一流の腕という全てを兼ね揃えていたのだから、一国の主になるのも当然かもしれない。
和歌山城から始まり生涯17の城を築き上げた天才建築家は、戦国の世に、敵に隙を与えない堅牢な城を築城しながらも、将来の平和な世を見越して城下町の道幅を広く取るなど、最後までその実力は色褪せなかった。
高虎の築城の歴史は、近世城郭完成への歴史といっても過言ではないかもしれない。数々の武功を挙げている大巨漢だったという高虎が、なぜそこまで細かな配慮をもって築城に情熱をもやしたのだろうか。死をも覚悟して敵対する主要部隊と死闘を演じ、自身が天下を狙ってもおかしくない資質の持ち主であったことは間違いない。
藤堂高虎は織田信長によって信長の甥信澄の配下に属した。
高虎18か19歳の時だ。二十代の時、信澄は安土築城のため、巨石を琵琶湖対岸より安土に輸送した。『信長公記』に記す蛇石という「助勢一万余の人数を以て夜日三日に上られ候」という巨石だ。巨石の陸上輸送はむずかしい。アルキメデスの法則にいう浮力をもって水中(湖水・海水)移動して、はじめて運輸が可能だ。この湖上輸送を可能にしたのは高虎の発想によるしかなかった。
高虎の出身地近江犬上郡には湖東三山のお膝元、湖東三山の石垣、観音寺城と小谷城の石垣を築いた石工集団が多く住んでいたのだ。高虎は故郷の石工たちを動員、主君信澄のため巨石を安土に献上したに違いない。
高虎が関係した築城には必ず犬走という石垣下、濠に接する所にテラスがめぐる。今治、津・彦根・篠山各城にみられる水面と石垣が接するラインの帯状テラスだ。犬走を設けることで、濠を渡って来る敵をテラスにあげ、石垣上から矢と長柄鑓で攻撃できるのだ。
江戸・大坂という巨大都市の原形プランをつくった高虎を、再認識する必要がある。
藩士たるものは、朝起きたらその日が死番と心得るべし。
藤堂高虎(藤堂高虎遺訓)
2.伊勢の津城跡(三重県津市)に藤堂高虎の騎乗像と上記の遺訓を記した碑が建っている。この言葉は津藩32万石の藩祖・高虎の口癖だったといい、江戸期の藤堂家家臣の多くが座右の銘とした。
この遺訓は、高虎の側近・佐伯権之介惟直が書き残した『高虎遺書録二百ヶ条』には「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」と記される。
毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと、家臣に言い切る高虎のこの言葉は、実は高虎自身が日々自分に言い聞かせてきた言葉だった
。
高虎は75歳で亡くなる。若い近習が遺骸を清めた。すると六尺二寸の体は玉傷、槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く、爪がなかった。左足の親指も爪がなく、満身創痍の体であった。
近江出身の高虎の実家は、昔は領主だったというが、農民にまで身を落としていた。高虎は最初、足軽として、浅井長政のもと、姉川の戦いで奉公し、織田
信長方の敵首を取って武功を現し、豊臣
秀吉同様に、低い身分から成り上がった。
転々と仕官先を変えて、流浪生活をし、無銭飲食をしたこともあった。天正4年(1576)に秀吉の弟の秀長の家臣となって、三百石をもらい、やっと出世の糸口をつかんだ。その高虎を裏切り者、寝業師という者もいる。秀吉が死ぬと
徳川家康に取り入った。
彼は
生涯で8度も主君を変えて、ついに家康に忠節を尽くし、外様ながら譜代に準じる厚遇を得るのである。その転身と出世のほどがあまりに鮮やかだったのでついた悪評といえる。
しかし、もともと高虎は苦労人であった。人生の酸いも甘いも知り尽くしていた。だから武士の人生は日々死番といいながら、人情に厚かった。
高虎は家臣に「自分がいやになったら、他へ仕えてもよい。そこがいやになったら元の禄で召し抱えてやる」といい、本当に戻ってきた家臣にそうした。
不思議がる者たちに高虎は「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と語ったという。
冷酷度2
腹黒度5
変態度1
鬼畜度1
生涯にこれだけ主君を変えた男も珍しい。彼は近江の在地領主の次男に生まれ、最初に仕えたのが浅井長政。浅井氏は滅亡後は阿閉貞征、磯野員昌と浅井氏旧臣のもとを渡り歩き、つづいて信長の甥である津田信澄、秀吉の弟である豊臣秀長、秀長の死後は秀吉の直臣となり、秀吉の死後は家康に臣と、生涯7人もの主君に仕えている。
滅亡した浅井氏の場合はしょうがないとしても、冷静に主君の力量や将来性を見極めて「コイツではダメだ」と冷たく見限った例も多々ある。このあたり、かなり冷たく計算高い感じがする。
転職者の多い戦国時代にあっても、ここまで尻軽な男は目立つ。しかし彼は悪びれもせず「武士たる者、7回くらいは主君を変えないと一人前とはいえないよ」などと開き直ってもいる。面の皮は厚い。
また、秀吉の死後は家康に臣従するが、その露骨なゴマスリも鼻につく。が、老齢の家康は判断力も鈍ったのか、高虎を気に入り重用した。外様でありながら親藩なみの待遇を得られたのもゴマスリのタマモノか?
しかし、幕末になって鳥羽伏見の戦いで藤堂藩はいきなり幕府を裏切った。高虎の計算高く非情なる遺伝子は、300年の時を越えて健在だった。
この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!