北海道・東北の城 一覧表|日本全国お城情報

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北海道・東北 城リスト

海防の城松前城
北海道松前郡松前町字松城
築城者:松前崇廣
遺構: 本丸御門、石垣、堀

1.松前城は、代々蝦夷地に君臨し、北辺の警備にあたっていた松前氏の居城です。古くは大館と呼ばれ、蠣崎氏がこの地にありました。

しかし、城としての建設は比較的新しいものです。幕末の嘉永2年(1849)、北辺の警備が重視されて、幕府の命もあり、時の藩主松前崇廣は高崎藩の兵学者・市川一学に設計を依頼し築城しました。

嘉永2年(1849年)、天守は和式築城最期の天守として造営され、白亜総塗込の壁画内は砲撃に耐えられるよう鉄板が張られていた。今ある外観復元天守は鉄骨コンクリート製である。

城は本丸・二の丸・三の丸からなり、総面積は約6万9000平方メートルあります。城内には三層(天守)以下3棟の二層櫓も造られています。西洋式を取り入れ、海防に重点を置いたので、三の丸には津軽海峡をにらむ7門の砲台がずらりと並んでいました。
安政元年(1854)に竣工しています。

しかし明治元年(1868)の戊辰戦争の攻防戦で榎本武揚ら旧幕府軍によって落城、同6年には廃城となりましたが、天守・本丸御門・本丸殿舎は破却を免れ、昭和10年に国の指定史跡となりました。ところが、旧国宝の天守は昭和24年に焼失、同36年になってようやく復元されました。

この天守は内部が松前城資料館になっています。藩政時代や松前家の資料、アイヌの民俗資料などが展示されていて、幕末の蝦夷地のようすがよくわかります。

城の裏手には、江戸時代の町並みを再現したテーマパークの松前藩屋敷、国の指定史跡である藩主松前家の墓所、松前家の菩提寺法どう寺、江戸時代のままの伽藍を残す龍雲院、250種もある松前の桜の資料館などがあります。

松前城は、地元では福山舘・福山城と呼ぶ。慶長5年、松前氏の名乗り(苗字)を徳川家康より認められた蛎崎慶広が大舘にかわり、福山の丘に新たな舘を築いた。

この慶広は徳川大名に列したが、蝦夷地は所領石高表示ができず、無城大名で、城郭を構えることを禁じられていた。したがって福山舘は陣屋構で、本格的な堀、石垣はなく、櫓・二階門(二重門)・天守の建築はつくられなかった。

この福山舘が城郭として改築されるのは、嘉永2年、松前崇広が群命でロシアの南下に備え城主大名に格上げされたことによる。念願の城を持てることになった崇広は、海防を主眼とする幕府の築城許可に応えるべく、城の海側に帯曲輪を設け塁上に7基の砲座を屋根付きで置き、城の左右には16基の台場を築いた。

さらに石垣を一二三段状に築いて、大手を南側津軽海峡に開き、丘続きの搦手を寺町地区として、一朝事ある折の兵姑地とした。

この繩張は、高崎藩の兵学者市川一学が行い、嘉永3年に起工し、4年後の安政元年(1854)に完成する。まさに和式築城の最後の城郭だった。



盛岡城(岩手県盛岡市内丸)
2.盛岡という地名は、慶長2年(1597年)、不来方の小山に土盛りして丘のように造成したことに由来する。盛岡築城前には不来方館と呼ばれる中世の城館があった。

盛岡城を訪れると、あまりにみごとな石垣に圧倒される。石垣のみごとさは東北の城でも屈指のものだ。この石堀は花崗岩であるが、なんと石切場である石材産地は、城のある不来方丘なのである。今も二の丸の東側には石を切り出した丁場跡がある。

このみごとな石垣は、近江出身の内堀頼式が指導して組みあげたものだという。内堀氏は南部氏に仕える以前に、近江浅井家に仕え、岩倉など湖東地区の石工集団と繋がりがあったと想像される。頓式・宵政父子は前田利家に仕え、金沢城などの石垣を手掛けたのち南部氏に仕えた。

内堀氏が不来方丘に城石垣を築くのは、慶長3年(1598)から寛永11年のこと。その間南部氏は、豊臣・徳川両政権のもとで、助役に狩り出されて肥前名護屋・伏見・江戸築城を経験している。これらの天下普請の諸城への石垣構築助役により、高度な石積み技法を身につけたに違いない。


鶴ヶ丘城(山形県鶴岡市馬場町)
3.鶴ヶ岡は城の雅称、鶴岡は地名である。戦国時代には大宝寺と呼ばれていた。庄内平野を潤す内川とその支流青龍寺川に挟まれる。最上義光が山形城にあって最盛期の折、庄内平野の海岸酒田に亀があがり、酒田の城を亀ヶ崎城、大宝寺の城を鵺ヶ岡城と称した、と伝える。

最上領の支城から徳川大名の居城となるのは、元和8年、信州松代より酒井忠勝が13万8000石で入部したことによる。忠勝は城の大改築に着手、承応3年までに本丸・二の丸・三の丸を水堀と土塁で堅め、虎口には石垣を構えた城郭とした。

完成された鵺ヶ岡城にはと櫓門など計17基が塁上に建ち並んだ。その威容は廃城前の明治初年の古写真によって垣間見られる。今日は、大手虎口の石垣の残片と本丸をめぐる土塁と水堀がわずかに残るが、城址の東南には致道館が、西側には御隠殿の遺構が見られる。


出羽の雄・最上氏の居城山形城
山形県山形市霞城町3番地
築城者: 最上義光
遺構: 石垣、堀

3.山形城は、延文2年(正平12・1357)に斯波兼頼が築いた城といわれています。しかし当時は、堀をめぐらした程度のものでした。兼頼は最上氏の家祖で、戦国時代には最上氏11代義光が威勢を奮っていました。

城塁は土塁造りで水堀がめぐる。石垣の情築は桝形虎口に限られた。二の丸西南塁上に三層櫓があげられた。この他本丸と二の丸だけで隅櫓は14基、門は17棟を誇った。

義光は徳川家康と親交力深く、慶長5年(160O)の関ヶ原合戦に際しては、西軍に属した上杉景勝軍と死闘を演じました。戦後はその戦功により、従来の24万石から一躍57万石の大大名となっています。

そこで旧来の館を改造し、山形城の大修築を行います。57万石の石高にふさわしい城が完成しました。本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張の平城で、広大な三の丸は侍屋敷となり、大手門は東に向いています。

城塁は土塁造りで、水堀が巡っていますが、桝形虎口に限って石垣が構築されていました。

二の丸西面塁上には三層櫓がありましたが、天守は築かれませんでした。天守の代用としての櫓が、本丸ではなく二の丸に位置している例は、あまり多くないでしょう。
昭和61年に、二の丸東大手門と多門櫓が復元されました。

城跡は現在、霞城公園となって1500本のソメイヨシノが植えられています。西側土塁には高さ13メートルのエドヒガンザクラの古木もあり、「霞城の桜」として天然記念物に指定されています。


JR奥羽本線の軌道は、山形駅のすぐ北側で山形城の二の丸堀底に敷かれる。この軌道の上に大手橋が架けられ、東大手門が復元されている。

山形城は、明治に入り陸軍用地として利用し続けられた。軍は本丸の石塁を崩し堀を埋め立てたので、最近の発掘調査で本丸堀が復元される以前は、本丸と二の丸の境目すら判らなかった。

東大手門は石垣で桝形虎口を形づくる。二の丸の他の南大手門、西門、北門、本丸の二つの虎口も、いずれも石垣の桝形虎口である。石垣はこの虎口部分に左右に積まれ、塁壁のほとんどが士塁と幅広い水堀だ。

平城である山形城は幅広い水堀をめぐらせておけば、籠城戦の折、出入口の虎口に敵が集中するから、戦闘を集約する虎口部のみを石垣としたのだ。

さらに平城であるため、城下から城の威容を見せるのがむずかしい。その上、本丸は約140メートル四方と狭いので、天守に相当する御三階櫓は二の丸西側、三の丸武家屋敷街に近い位置にあげられた。


上杉氏のプライドを見る米沢城
山形県米沢市丸の内1丁目4-13
築城者; 伊達晴宗
遺構: 堀、士塁

本丸・二の丸・三の丸が輪郭式縄張の平城。各曲輸は土塁と水堀で囲繞、石垣は構策されず。本丸には隅櫓が2棟あげられ、丑寅櫓が天守に代わる御三階櫓と称された。

米沢城が初めて築かれたのは、鎌倉幕府の実力者大江広元の次男時広が、長井庄の地頭としてこの地に来た暦仁元年(1238)のことと伝えられています。しかし大江氏は、伊達氏の攻撃を受けて康暦2年(天授6.1380)に滅び、米沢城は伊達氏の本拠となり、伊達晴宗のとき城が築かれました。

天正19年(1591)からは蒲生氏、慶長3年(1598)からは上杉氏の武将直江兼続が入城します。関ケ原合戦で上杉氏の属する西軍が敗れ、米沢には兼続の主上杉氏が30万石に減転封されてきました。

米沢城は、松川西岸の扇状地に築かれた平城で、本丸・二の丸・三の丸力輪郭式縄張を形成しています。各曲輪は土塁と水堀で囲まれていましたが、石垣は使用していません。本丸には三層の隅櫓が2棟あり、丑寅櫓が天守に代わる御三階櫓と称されていました。

現在、本丸跡の周囲に土塁と水堀が残されていますが、本丸跡がそのまま松ケ岬公園とされました。本丸内には上杉謙信を祀った上杉神社があり、その稽照殿に隣接して米沢市上杉博物館が建っています。

公園の東側にある松岬神社は、米沢藩中興の名君上杉麿山を祀ったものです。公園の西側にある上杉家の廟所には米沢上杉氏初代の謙信から12代斉定までの歴代藩主の祠堂が、鯵蒼たる杉林のなかに並び、荘厳なたたずまいを見せています。この廟所は国の指定史跡です。


奥羽三名城の一つ上山城
山形県上山市元城内3番7号
築城者:武術義忠
遺橋: 石垣、堀、武家屋敷ほか
上山城は、戦国時代の天文4年(1535)に最上一族の武術義忠が上山盆地の月岡に築いた城が始まりです。

羽州街道と米沢街道の分岐点に近く、山形の最上氏と米沢の伊達氏がしばしば衝突した土地でした。最上氏は、室町時代に出羽探題として入国した斯波兼頼を祖とし、安土桃山時代の最上義光の時が最盛期となります。天正年間(1573~91)の城主は義光の伯母婿の武術満兼でしたが、義光に滅ぼされてしまいました。

江戸時代の寛永5年(1628)に、当時の城主土岐頼行によって天守が築かれます。当時は小さいながらも奥羽三名城の一つに数えられていました。元禄5年(1692)に土岐氏が転封すると、城は破壊され、天守も取り壊されてしまいます。その後、金森氏の入封後、二の丸に居館が設けられました。

昭和57年に、模擬天守が復興されています。ただ場所は旧城跡の隣接地です。天守内部は博物館になっていて、上山の歴史に関する資料などが展示されています。

さて、城下町は有名な上山温泉で、山形新幹線の駅名にもなっています。その見どころとして、沢庵和尚の過ごした「春雨庵」を復元したもの、藩政時代の上層農家尾形家、白壁の酒蔵風建物と日本庭園が美しい博物館「蟹仙洞」、斎藤茂吉記念漁官などがあります。


上山温泉郷を望む月岡公園に天守がそびえる。この天守は歴史博物館として建造された模擬建物だが、博物館展示としては上山城に大きなスペースを割く。

実在した天守は元和8年(1622)に入城した松平重忠から寛永5年(1628)に入城する土岐頼行の代に造営された三層づくりで、その外容は「正罫保城絵図」に描かれている。

しかしこの天守は、元圭禄5年、土岐頼行が改易になると、幕府により破却された。この廃城時、天守と櫓二基をもつ本丸を中心に梯郭式に築かれていた二の丸・三の丸・外郭なども、破却されてしまった。

再び上山城が出現するのは、土岐氏にかわり入城する金森頼吉の時で、飛騨高山城から3万8000石で入城する。しかし金森氏は在城5年で移封。藤井松平信通が3万石で入城する。松平氏は城持大名であるが、大々的な築城は行わず、天守や櫓などは構えず、瓦も用いず柿葺きの屋根什上げとし、石垣は「六ヵ所、五拾七間」と記録に見えるだけの素朴な城郭とした。その構えは明治まで変わることはなかった。


戊辰戦争で白石同盟が結ばれた白石城
宮城県白石市益岡町1-16
築城者: 蒲生郷成
遺構: 石垣

4.天正19年(1591)に豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えました。蒲生氏家臣の蒲生郷成が、白石城を築城し、その城主となっています。慶長3年(1598)には上杉領となりましたが、上杉氏の家臣甘粕清長は白石城の再構築を行って居城としました。

同5年の関ケ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略、この地方は再び伊達領となります。

伊達氏家臣片倉小十郎により大改修がなされ、以後明治維新まで片倉氏の居城で、戊辰戦争の際、奥州列藩同盟の公議所が置かれました。白石城は、標高76メートルの最頂部に本丸・二の丸・中の丸・西曲輪、中段には沼の丸・南の丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き、丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三の丸・外曲輪が配置されています。

本丸は高さ9メートル余の石垣の上に土塁を囲み、三層櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を備えたもので、御成御殿・表・奥の諸建物がありました。木柵を回した崖を利用するなど、中世と近世城郭を併用した縄張となっています。

文政6年(1823)に再建された建物の構造を手本として、天守や大手門などの本丸の一部が平成7年に復元されました。櫓は木造で、学術的にも評価をされているものです。



二本松少年隊奮戦の舞台二本松城
福島県二本松市金色403-1
築城者: 丹羽光重
遺構: 石垣

5.標高245mの白旗ヶ峰山頂に本城と西城を構築し、山腹に数多くの曲輸を配し、山麓部に二の丸を備えた階郭式縄張を形成。この丸には城主居館・政庁が置かれた。

二本松城は、応永年間(1394~1427)に畠山満泰が白旗ケ峰に築城したことに始まります。峻険な山頂にはいつも霧が渦を巻いているので、霞ケ城とも呼ばれました。その後、領主は伊達氏から蒲生氏、上杉氏と代わり、寛永20年(1643)丹羽光重が入封、山麓に居館を設けて近世城郭の体裁を整えています。

白旗ケ峰の山頂は本城と呼ばれ、重厚な石垣と天守台跡が残っていますが、天守が建てられたという記録はありません。丹羽氏の代まで本丸としての位置づけだったようです。

また、近年の発掘調査により、本城の周辺からはさらに古い石垣が発見され、いつごろの時代のものか調査の結果が待たれます。
つまり、二本松城は中世城郭と近世城郭が併用されたものということが大きな特徴です。

丹羽氏は代々10万石の領主として明治維新まで続き、戊辰戦争を迎えました。藩兵は奥羽列藩同盟として出撃中に官軍の攻撃を受け、老人や少年が動員されて戦いました。二本松少年隊の逸話はこの時のことです。現在、昭和57年に復元された箕輪門下に、彼らの勇姿像が立っています。

山裾から山頂まで、多くの曲輪が階段状に配置されたこの城は、本城部分の石垣、畠山時代の大手門跡、再建された箕輪門など見どころはいっぱいです。

二本松城といえば、毎年秋の菊人形がつくられる舞台として名高い。菊祭り以外の時節に観光客を呼ぼうと考えた行政が、誤った歴史認識を市民に与えてしまった。昭和56年度に復興した箕輪門と二重櫓である。

共に史実を全く無視したもので、古絵図に描かれている箕輪門の姿ではない。しかし左右の石垣は、さすがに安土城の総普請奉行をつとめた丹羽長秀の嫡孫光重が築いただけあって、みごとの一言に尽きる。

箕輪門左右の石垣を見たなら、是非とも背後の山城に登ってもらいたい。平成14年(2002)度までに全面発掘及び復元整備を完了した、山城域をぐるりとめぐる天守台石垣と本丸の石垣が見学できる。

この標高345メートルの山城域こそ、足利政権が奥州の鎮守府として畠山氏を配して築いた二本松城のあった所、すなわち中世の二本松城のあった所で、麓の城とは異なるのだ。

今、発掘で出土、復元整備された石垣は、畠山氏時代ののち、会津を領した紺生氏郷・上杉景勝時代に積まれ、丹羽氏時代には詰の城として補強されたものだ。



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