1.太原雪斎は今川義元の教育係で兵学の知識も豊富だったけど欠けていたもの

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太原雪斎

戦術7
知力9
政治力10
忠誠心10
運10

今川義元の教育係
桶狭間合戦が起こる以前、今川義元こそ天下人に最も近い存在だった。駿河、遠江、三河の三カ国を完全に支配して、日本最強レベルの経済力と軍事力を有している。その盤石の体制が築けたのは、軍師・太原雪斎の力によるところが大きかったといわれる。

雪斎はもともと今川氏の譜代・庵原氏の出身だったが、少年時代に出家。武家を捨てて僧侶となる。当初は地元の駿河にあった善得寺に入るが、やがて上洛して建仁寺に移り修行をすることになった。

しかし、主家の今川氏から出仕を要請されるようになる。 すでに雪斎は秀才の評判も高く、僧侶ながら兵法も深く学んでいた。だが、この雪斎。俗世を捨てて出家するくらいだから、もともと物欲や出世欲は希薄な性格である。

知恵も胆力も人一倍ありながら、唯一、欠けていたのがこの欲。それは現世で生きる者、なかでも弱肉強食の下克上の世界に生きる戦国武将には、必要不可欠の資質である。あるいは、雪斎はその資質の欠如を悟り、仏門に帰依したのかもしれない。

やがて雪斎は今川氏親より五男・芳菊丸の教育係を命じられる。当主から直々に要請されては断るわけにはいかず、さすがの雪斎もこれを引き受けるしかない。この芳菊丸こそが、後に今川義元となり「海道一の弓取り」と呼ばれ天下に最も近い男になろうとは、さすがの雪斎もこの時はまだ予想もしていなかった。

三国同盟を成立させて上洛を可能にしたが今川家中では兵学の知識で雪斎の右に出る者はいない。

また、実戦の指揮も適切だった。僧形のまま軍勢の先頭に立って戦う雪斎に、敵の猛将たちは恐れをなしたという。 しかし、この男の真価はやはり、軍勢を率いて戦うことよりも、外交や調略の手腕にある。

戦場で目先の勝敗にこだわる戦術よりも、もっと大きな大局を見据えた戦略レベルの作戦を構想できる能力もある。 今川義元が望む「上洛して諸国に号令する」という、その最終目的を見据えながら必要な手を尽くしてきた。

その最大の成果が相模の北条氏、甲斐の武田氏との間で調印にこぎつけた「三国同盟」だろう。

隣接するこの三国は互いに争い、国境紛争が絶えない状況だった。しかし、今川氏が上洛を念頭に西方への進出をめざすのと同様に、北条氏には関東制覇、武田氏には信濃を攻略するという長年の悲願がある。

三者ともに戦略目標が違う。兵力を向けるべき方向も違う。争う必要はない。不可侵条約を結んで後方の安全を確保すれば、お互いに戦略目標の達成は容易になる。武田氏や北条氏にそのメリットを説いてまわった。



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