1.陶晴賢は大内家の猛将だったが月山富田城の敗戦が原因で…

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陶晴賢

戦術4
知力3
政治力7
忠誠心2
運3

西国無双の侍大将と異名された猛将
陶晴賢は大内氏の譜代重臣の家柄だった。主君・大内義隆が小姓として寵愛してきた関係から、その信頼も絶大。

家督を継ぐと義隆を補佐して、中国地方最大の大名家を取り仕切った。「西国無双の侍大将」と異名された猛将だった。しかし、激しやすく短慮が目立つ。戦場では勇ましい猛将ではあるが、軍師のイメージは希薄である。

しかし、大将の足りない部分を補うのもまた軍師の仕事。主君の義隆は、武将としての覇気に欠ける。

戦場を敬遠して自ら軍勢を率いることは少なかった。これでは、兵の士気を鼓舞することはできない。軍勢には、勇ましく頼りになる大将の存在が必要なのだ。そこで晴賢が義隆に代わって大内軍団の精神的支柱の役回りを演じたのである。晴賢が出陣すれば、軍勢は奮い立ち戦意も高まったという。

晴賢は、天文11年(1542)に尼子氏の本拠である月山富田城を攻めるが、撃退されて退却。この失敗によって義隆の信頼も失墜して関係が冷えてくる。

義隆が他の家臣を重用するようになり、しだいに立場も弱くなると、追いつめられた晴賢は挙兵して義隆を攻め殺して大内氏を纂奪してしまう。

だが、それも長くは続かない。毛利元就を討つため、大軍を擁して出陣する。しかし、ここでも短慮から元就の謀略に引っかかって厳島へ誘導され、軍勢は壊滅。晴賢も追いつめられ自害して果てた。

主君を補佐してきた晴賢だが、自らが大将となった時に、足りない部分を補ってくれる軍師や補佐役は不在。それが悲劇を生む結果となった。


その美貌を気に入った大内義隆の寵愛で大出世
冷酷度5
腹黒度2
変態度1
鬼畜度3
当時、中国地方最強最大の大名だった大内義隆は、公家の装束を着て牛車に乗る武将らしからぬ男だった。戦はヘタクソで政事にも関心がない。

それよりも和歌や連歌などのほうが大事というから困ったもの。美しいモノにも目がなく、重臣だった陶家の次男坊の美少年に目をつけて寵愛した。 自分の一字を与えて隆房と名乗らせたこの美少年は欲しいものがあれば力づくで奪う。

まずは武任を暗殺しようと画策、事前に察知した武任はそのまま大内氏を出奔してしまう。晴賢がよほど怖かったのだろう。こうなると義隆も晴賢を頼るしかなく、家中の実権は再び彼の手中に。だが、一度でも自分を裏切った者を許すほど晴賢の心は広くない。義隆もタダではすまされないだろう。

晴賢の怖い性格をよく知ってる家中の者たちは、「アイツ、何か企んでますよ」と注進した。また、相良武任も逃亡先の筑前から、「ヤツは謀反を計画 してます」との密蓄を送った。義隆は一刻も早く晴賢を始末しておくべきだったが、このあたりの判断が遅い。長年寵愛してきた晴賢への愛着もあっ たのだろう。

一方、非情で残忍な晴賢には躊躇がない。いつの間にか家臣団や領内の豪族を味方につけて、1万人の大軍勢で攻めてきた。義隆は抵抗することもできずに逃走、海路で隣国へ亡命しようとしたが、運悪く暴風雨のため出港できず、長門の大寧寺で自害した。

また、嫡男も晴費により殺害され、ついでに相良武任も筑前守護・杉氏に要請して山口に送還させて処刑、義隆が庇護していた公家の三条氏らもついでに処刑。もう、義隆の関係者はなんでもかんでも皆殺し。恐ろしい血の粛清、もはや誰も文句はいえない。

果敢な先制攻撃と苛烈な戦後処理による恐怖で大内氏を奪うことに成功した晴賢だが、その天下はわずか3年余り。彼以上の悪党である毛利元就の術中にハマッて厳島合戦で敗死してしまう。
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