北条早雲は現代の高齢化社会でも模範になる先人

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北条早雲名言集(早雲寺殿廿一箇条)

少しでも暇があれば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。
北条早雲(早雲寺殿廿一箇条)

「早雲寺殿廿一箇条」は北条早雲が晩年に、北条氏に奉公する家臣の心掛けを、家訓として残したものである。その文章は平明で、具体的である。

朝は早く起き、厠から馬屋、庭、門の外まで見回り、掃除するべきところを、きちんと家人に命じてから、洗面をしなさい。夕方は六ツ時(午後6時)にきちんと門を閉め、その後の出入りは、そのつど門を開け閉めさせなさい。

また夜には台所など火の気のあるところは自分で見回るように。女性だけに頼るのはよくなく、召し使っている家人まかせもよくない。火の用心は主人が先頭に立って行いなさいと命じている。

北条早雲といえば、応仁・文明の大乱で中世的秩序が崩壊し、下克上となるなか、一介の素浪人の身分で伊豆の地を乗っ取り、やがて小田原城を奪って、関東に名を轟かせた。

何しろ腕力で国を奪った武将として、いかつく、血も涙もない男と思われがちだが、実際は神経がこまやかで、農民を慈しんで、領民に慕われた。早雲は人の情や知に精通した戦国武将だった。

しかも国盗りに着手したのが60歳と高齢になってからだ。人間は年を取ると億劫になりがちで、保守的になるものだ。だが、早雲は白髪だったが、目も耳もしっかりして、歯も抜けておらず、心身ともに健康だった。

64歳で小田原城を手に入れ、相模一国を掌中にしたのは、85歳だった。 死ぬ88歳まで現役だった。早雲は現代の高齢化社会にあって、模範たる先人といえる。

その早雲は読書の必要性を説いた。それは教養を積むためであるとともに、文字は寝ても覚めても使い馴れないと忘れてしまう。その予防策でもあるとし、手紙を書くことも促している。

また碁、将棋、笛、尺八といったものが好きな友だちとは、付き合ってはいけない。良い友だちを選ぶには、手習い・学問を好む人がよいといっている。 さらに、歌道がわからない人は、心の貧しい人である。だから歌道をきちんと学ぶべきだとも忠告している。


勝利のために手段は選ぱず騙し討ちは得意中の得意
冷酷度3
腹黒度5
変態度1
鬼畜度2
北条早雲が伊勢新九郎を名乗っていた若い頃の経歴はほとんど史料がなくハツキリしない。幕府の礼式を司る伊勢氏の血脈で、一説には八代将軍・足利義政の側近だったといわれるが、確証はない。

しかし、すでに京は応仁の乱で荒れ果て、室町幕府は衰退期。伊勢氏とはいえ傍流の彼には金も力もなかったはず。司馬遼太郎の「箱根の坂」では、愚連隊の親分のような感じで描かれている。

名門の御曹司というより、アンダーグラウンドな世界に暗躍する素性の知れない男。それが、妹の北川殿が駿河守護・今川義忠の側室となったことが縁で、駿府へ移住して今川氏の食客となる。

この時も、ゴロツキのような子分たちを従えての駿河入り。最初から騒動をおこすつもりだったのかもしれない。

じつはこの頃、駿河では一揆の鎮圧にあたっていた義忠が流れ矢に当たって急死。北川殿が生んだ遺児の龍王丸と、義忠の従兄弟にあたる小鹿範満との間に跡目争いがおきていた。当然のこと早雲は龍王丸の陣営で暗躍する。

もともと弁のたつ男で、大名にならなければ詐欺師として大成しそうな感じもある。この時も伊勢氏のルートを使って幕府要人を説き伏せ、龍王丸の家督相続を認めさせた。

しかし、納得できない範満がゴネていた。ここから早雲の怖さが垣間見られる。仲間を引きつれて駿河を退去して敵陣営を安心させたところで再び駿河に潜入して、駿河館にいた範満を襲撃して有無をいわさず殺してしまう。

先手必勝、どんな手を使っても勝てばいい。この男、ケンカのやり方をよく知っている。相手を安心させておいてからの騙し討ち奇襲攻撃は、この後も早雲の得意技となる。
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