新潟県・新発田城|屋根の上にいる3尾のシャチホコのなぞ
更新日:
新発田城(新潟県新発田市大手町6-4)
新発田城について
越後新発田は、溝川氏十万石の城下町である。築城者は溝口秀勝で、溝口氏は慶長3年の入部以来、明治に至るまで新発田を動かなかった大変に珍しい特筆される外様大名であった。
秀勝は、名築城家として知られる丹羽長秀に仕え、岐阜・佐和川・大満・安土・大坂各城の築城に関わった。秀の名乗りは長秀の一字である。天正13年、長秀が没すると羽柴秀吉は秀勝を堀秀政の与力とし、大聖寺城主とした。秀勝は豊臣大名となったのだ。
文禄元年(1592)、築城のノウハウに長ける秀勝は秀吉に肥前名護屋城の普請助役、続いて伏見城助役を命ぜられ、慶長3年に主家恥秀治が上杉景勝の会津転封に伴い越後に封ぜられると、新発田六万石(入封後に1万6000石加地)に封ぜられた。秀勝は
関ヶ原合戦で徳川方についたため、新発田城を安堵された。
近郊を流れる新発田川の流れを利用した平城で、石垣には切り込みハギという石同士の接合部分を隙間なく加工して積み上げる高度な技術が用いられている。
秀勝は関ヶ原合戦後に本格的な石垣普請に着手、完成は三代城主溝口宣言だった。
現在、天守に相当する邸三階櫓が復元、二の丸隈櫓、本丸表門、復元辰巳櫓が本丸石垣上に建つ。
旧城を取り入れながらも、比較にならないほど大きな縄張を築いたため、完成は3代宣直の時代の承応3(1654)年、実に56年の歳月がかけられたのでした。
その後、溝口家は明治まで12代を数えたのですが、明治に入って、建物の大半が取り壊され、堀もほとんど埋められてしまったために、現在、残っているのは、表門、二の丸隅櫓、本丸南面
石垣のみになっています。
もともと
天守はなく、本丸の北西隅に三重櫓を築いて三階櫓と呼んで天守の代用としていましたが、これも明治7(1874)年に解体されてしまいました。しかし、長年にわたる住民からの希望もあり、明治初年の古写真などを資料にして、平成16(2004)年に、辰巳
櫓と併せて復元されました。
廃藩置県で6万石から10万石に石高が増えているのも珍しいですが、県の文化財である豪農・市島邸などを訪ねてみると、豊かな米どころであったこの地方の暮らしや文化が偲ばれてきます。
城下町の面影を残す寺町通りには、その分家の「市島酒造」も。華やかとは言えませんが、独特のゆかしさをたたえる北越のお城。折に触れ訪ねたいところです。
新発田城のシャチホコは敵の目をあざむく
西は海、東は山、北は外堀代わりの加治川から城にかけてが低湿地帯という恵まれた地形に新発田城は建っている。豊富な水を堀としてうまく使い、地形的に手薄の南を三の丸でしっかりと守り、本丸を二の丸と古丸(以前の本丸)でぐるりと囲んでいる。一見するとシンプルな造りながらよく考えられた縄張だ。
築城は1598(慶長3)年、築城主は初代新発田藩主・溝口秀勝だ。もともと秀勝は、
信長の
安土城の築城奉行も務めた丹羽長秀の家臣で、豊臣
秀吉時代に新発田城主になり、関ケ原の戦いでは
徳川家康について勝利したというから相当の世渡り上手だったと思われる。
溝口氏は、関ケ原の戦い以前から明治維新までこの領地を守り切った非常にまれな一族なのである。
しかしまれといえば、新発田城の屋根の上にいる3尾のシャチホコだ。普通は2尾一対のものなのにどうして3尾なのだろうか。
シャチホコがあるのは、実質天守の役割を果たしていた本丸の御三階櫓である。屋根がT字型になっており、その3点にそれぞれ1尾ずつシャチがいる。見る角度によって見える2尾のシャチホコも変わるため、シャチホコは2尾一対と思っている敵は混乱に陥るといわれている。
混乱に陥る要因には、本丸が五角形であることも関係している。2尾のシャチホコによって本丸を四角形と思わせる効果もあるからだ。
つまり3尾のシャチホコと玉角形の本丸は、二の丸まで迫ってきた敵に本丸の位置や巡の方向などを錯覚させる巧妙なトリックになっているのだ。
この城の完成までには、溝口氏三代が約50年をかけたといわれている。
新発田城
国重要文化財 本丸表門、二の丸隅櫓
別名 舟形城(ふながたじょう)
分類 平城
築城年 鎌倉時代か、慶長3(1598)年
築城主 新発田氏、溝口秀勝
主な城主 溝口氏
新潟県新発田市大手町6-4
この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!