7つある城の攻めかたと歴史上戦いが多かった城はどこ

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城攻めはどうやっておこなわれた?

城は一国の中心であり、戦略拠点でもある。だからこそ、城を落とすということは攻め手にとっては意義深いことでもある。ところで城に攻撃をしかけることを「城攻め」というが、いったいどんな攻め方があったのだろうか。

まずは「力攻め」。これは兵力をもって城を落とすことだが、力を振りかざすだけの愚策と見られていたようだ。そのほか、城内の防衛が整っていないうちに攻撃するなど、隙を狙って攻める「奇襲」、城を取り囲んで相手を弱らせる「包囲」といった方法が見られた。

なかでも「包囲」は攻める側の策略も必要とされる方法で、「兵糧攻め」がよく知られる。食料、武器などの補給を断つ方法で、豊臣秀吉が三木城をはじめ鳥取城、高松城などを攻略する際に行っている。

ちなみに、城の飲料水を断つ方法を「干殺し」という。城に水を引き入れる水源を断てば、断水状態になるが、このように生命にかかわる食料や水を断つ方法は、敵の抗戦意欲も失わせる戦法なのだ。

次に「水攻め」だが、これは河川を堰き止めて、城の中を水浸しにする。「火攻め」は火のついた矢を放ち、焼き討ちにすることだ。

しかし、包囲戦が長引いては自陣の兵も疲労する。さらに怖いのは、城の援軍が押し寄せ、挟み墜ちにあうことだ。それを避けるためは敵城内に内通者をつくって、城内に火事を起こさせたり、扉を開けさせたりするなど、効率的に攻め入るためのさまざまな策が講じられた。

兵力さえあれば、城を落とせるとは限らない。相手の情報を知り、味方の損害を最小限にするには知恵と判断力がものをいうのだ。


歴史上、戦いが多かった城はどこ
長い戦国の歴史のうちで、もっとも多く戦火に見舞われた城はいったいどの城なのだろうか。そして、なぜ何度も襲われてしまう城があるのだろうか。

まず、争奪戦がたびたび起こる城はその立地に原因がある。多くの場合、その城をおさえることで同時に陸路や水路など主要な交通網を手中に収めることができたからだ。

たとえば、愛媛県の東に位置する川之江城は、四国の交通の要となる位置にあったため、細川氏、長宗我部氏、小早川氏など、時代ごとに名だたる戦国大名に攻められたという歴史を持つ。福岡県の門司城も、九州の玄関口となることから、大友氏と大内氏、そして毛利氏による争奪の的となっている。

そして、偶然にもにらみ合う武将の領地の境にあったために戦場になってしまったという、なんとも悲運な城もある。

静岡県の高天神城は甲斐と駿府の県境に近かったため、武田氏と徳川氏が長年にわたり奪い合いを繰り返している。武田家にいたっては、信玄、そしてその跡を継いだ子の勝頼と、2代にわたってこの城を攻めているのだ。

そして、多くの戦いを経ている城として外せないのが、斎藤道三の築いた稲葉山城だ。長井氏の謀反に始まり、あの織田信長でさえ一度は攻略に失敗している。さらに岐阜城と名前を変えた後も斎藤氏、池田氏、織田氏と争奪戦が繰り広げられ、しかも歴代の城主はそのほとんどが非業の最期を迎えているのだ。

いまも各地に残る城跡には、そこで行われた戦いの数だけ天下を夢見た武士たちの思いが限っているのである。



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