福島県・白河城|東北三名城で万里の長城のような鉄壁の石垣がある

更新日:

日本にも万里の長城がある?

暦応3年(興国元年・1340)に、結城親朝が現在地に新城を築いて、小峰城と称しました。近世になっての寛永4年(1627)には丹羽長重が入封し、城を改修して城下町を整備しています。

白河城と呼ばれるようになったのは、それからのことです。以降、多くの譜代大名が次々に入れ替わりましたが、歴代城主のなかでは、寛政の改革をなした松平定信がもっとも有名です。

明治元年(1868)、戊辰戦争で白河城は官軍と奥羽列藩同盟軍の争奪の的になってしまいました。5月1日、同盟軍は必死に防戦しましたが、圧倒的な官軍兵力と火力の前に、5時間余りの激戦のすえ落城しました。建物もすべて焼失してしまったのです。

現在城跡には、雄大に石垣が連なっていますが、その先の三層櫓天守は、「正保城絵図」をもとに平成3年に復元されたものです。昔ながらの工法を用い、松や杉などを建築材としています。

また、近年大手門付近の発掘調査により、大手門のものと思われる石垣の一部が出土し、話題となっています。この三層櫓とそれに続く前御門、そして壮大な石垣群は、白河を訪れる旅人を感動させることでしょう。

城域内には、城郭内に所在した土蔵をイメージして建てられた資料館「白河集古苑」があり、小峰城の創築者である結城氏、江戸時代に白河藩を治めた阿部氏の歴史的遺産が保存展示されています。また城内の一部はバラ園になっていて、季節には種々のバラが咲き誇ります。

白河小峰城は、古代中世の白河関にかわり、近世では江戸城の御膝元関八州と奥羽とを分かつ軍略上の関門に当る城郭だった。中世戦国時代には、東の佐竹氏、北の伊達氏、内の蘆名氏と覇を競い、室町中期には他氏を凌ぐ一族勢力を誇った結城白川氏(白川結城氏ともいう)が、白川搦手城(白河小峰城の東側の丘上)にあって、戦国大名へと成長する。

結城白川氏はその後、佐竹氏に組み込まれてしまう。搦手城にかわり小峰城が築かれるのは、寛永4年(1627)のこと。棚倉城にあった丹羽長重に、徳川幕府が戦略の一環として築城させたのだ。

長重は、安土城の総普請奉行で岐阜城及び信長再築大坂城の普請奉行をもつとめた丹羽長秀の嫡流である。丹羽家中には、築城のノウハウをもっている家臣と職人衆たちがいたのだ。幕府は、赤舘へ元和8年(1622)に入封させた長重を寛永2年に棚倉に移し、その2年後にこの白河小峰城を築かせたわけだ。さらに同20年、長重の子光重は、二本松築城を行い、みごとな石垣をもつ山城を仕上げる。

盛岡城、会津若松城とともに。東北3名城のひとつといわれる白河城は、土造りが多かった東北地方では数少ない石垣造りの城であった。

そして、その石垣は蛇のように長く延ばされて、城の堅固な守りの象徴ともなっていた。あたかも「万里の長城」のように長大な石垣であったと伝えられているが、なぜこの地に鉄壁の石垣がつくられたのだろう。

白河城の始まりは遠く南北朝の頃といわれているが、城の顔ともいえる石垣が造られたのはその後江戸時代になってからだ。大規模な改築工事は、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠に命じられて白河藩の初代藩主となった丹羽長重の手によって、1632(寛永9)年に行われたものだ。

その改築にあたって、幕府はこの白河城を関東の背後を固める城として重要視した。なぜならこの白河城のある福島は奥州の玄関口ともいえる位置にあったからだ。

奥州には仙台藩の伊達家をはじめとして、力のある大名が多かった。幕府は彼らににらみをきかすため、威厳と鉄壁の守りを兼ね備えた城が必要だったのだ。

この白河城は、江戸幕府が終焉を迎えた1868(明治元)年の戊辰戦争では激戦地のひとつとなった。北陸や東北の諸藩からなる同盟軍と新政府軍との攻防がこの白河城を舞台に繰り広げられ、多くの犠牲者を出した末に落城、石垣を残して焼失してしまったのだ。

その後長らく石垣だけという状態が続いていたが、平成になってから建物を木造で復元し、雄大な姿を再び見せることとなった。
長く延びた石垣はその姿から蛇尾の石垣ラインと紹介され、現在でもその名残を見ることができる。


この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!
ナビ
Page Top