島津義弘の関ヶ原合戦での戦いぶりはあ然とする内容だった
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島津義弘
関ヶ原合戦の島津義弘の戦いぶり
1.
島津義弘
冷酷度5
腹黒度1
変態度3
鬼畜度5
関ヶ原合戦の島津義弘の戦いぶりは不気味で怖さを象徴するようなものだった。
西軍に属していた義弘は1500の軍勢を率いて西軍緒隊のほぼ中央に布陣した。小勢とはいえ戦力として頼りにされていたのだが、戦闘が始まってもまったく動かない。それどころか、味方であるはずの西軍の隊が近寄ってきたら鉄砲を撃ちかける。裏切りかと思いきや、同じく島津隊に接近した東軍部隊にも鉄砲の洗礼があった。
いったい何を考えているのか解らない。どうやら、この数日前に義弘が敵陣への夜襲を献策したが、それを石田三成に却下されてへソを曲げたのだという。悔しいのは解るが、それで天下分け目の決戦をサボタージュするとは普通ならありえない。
しかも、島津勢が陣取っているのは、関ケ原のど真ん中にある要地。小勢とはいえ、その働き次第では戦闘に大きな影響を及ぼし、西軍を優位に導くこともできる位置だった。
関ヶ原合戦の敗因は、小早川秀秋の裏切りや毛利勢の傍観などがその大きな理由にあげられるが、この島津勢の背信行為も問題視すべきである。
この後、義弘は決死の敵陣中央突破をおこない、10万人といわれる東軍を相手に関ヶ原からの脱出に成功している。しかし、犠牲も甚大で、無事に薩摩まで生きて帰ったのは義弘を含めてわずか80人あまり。
彼のつまらぬ意地が1OOO人近い兵を死に追いやった。たしかに撤退戦の激しい戦いぶりで、家康は征伐を躊躇して島津氏は生き残ることができた。しかし、そこまでの経緯はとても褒められるものではない。
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