島津忠良は人の心に響く四十七歌のいろは歌を作った
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島津忠良名言集(日新公いろは歌)
いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせすぱ甲斐なし
島津忠良(日新公いろは歌)
1.「昔の優れた人の教義を聞いても、また唱えても、それを自分が実行しなければ、何の値打ちもない」という歌に始まる、「いろは四十七歌」を作った英明な武将がいた。
我が4人の孫を、総領の義久、武勇の義弘、智謀の歳久、兵法の家久と呼んで愛した島津忠良である。我が息子の貴久を島津本家に入れることに成功し、貴久が十五代を継いだ後に出家して、日新斎と名乗った。
忠良は明応元年(1492)に伊作(鹿児島県日置市)の亀丸城に生まれて、伊作島津氏第十代の当主となった。忠良は弱体化した本家の跡目をめぐっての島津一族の戦いに勝ち抜いて、薩摩国を統一し、息子や孫と力をあわせて、大隅、日向の統一にも乗り出した。忠良こそ薩摩藩島津氏の父であった。
この日新斎忠良が「いろは歌」を作ったのは天文14年(1545)、54歳の時であった。彼は
神道、儒教、仏教の三つの教えをもとに、人間の守るべき道、とくに武士に対する指針を「いろは歌」によって示した。
この歌は以後、島津氏のパイブル的な存在となって、彼らの精神の基本となった。また薩摩藩の郷中教育では、生徒たちは「いろは歌」を暗唱した。
「いろは歌」の「ろ」は「楼の上も埴生の小屋も住む人の心にこそは高き賎しき」で、「人に高い低いなし、心に高い低いあり」の注がつく。人間は立派な家に住んでいるか、みすぼらしい家に住んでいるかで決まるのではなく、貴賎は心で決まるのだと歌う。
忠良はこの歌ができると京都に住む連歌師の頭領・花の本宗養に批評を仰いだ。
これを見た宗養は歌の見事さに驚き、関白・太政大臣を務め、当時歌道の長者といわれた近衛植家に見せた。
植家も「これは凡人の詠歌ではない」といって、衣冠を改めてから見たとされ、植家の一筆が、「いろは歌」の最後に記されている。
「似たるこそ友としよけれ交はらば我にます人おとなしき人」(自分と同類の人を友としがちだが、自分より優れている人、思慮分別のある人と交わるべきである)
「とがありて人を切るとも軽くすな生かす万もただひとつなり」(罪があって人を斬るとしても軽々しくしてはならぬ。主君の心掛け次第でこの者を殺さずに活かすこともできる)人の心に響く四十七歌である
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