沖縄県・首里城|中国の影響が強く日本の城とは異なる

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首里城について

首里城は、旧首里市の中央、首里森の高台上に築かれた山城です。察度王が築城したと推定され、以来明治12年(1879)の琉球藩廃止までは代々の琉球国王の居城でした。
城郭は、大きく外郭と内郭に区別できます。

城外と城内を仕切る城壁が外郭で、歓会・久慶・継世の3門が開かれています。歓会門は表門、久慶門は通用門、継世門は裏門といった機能があります。木曵門は工事用資材の搬入路で、通常は石を積み閉じられていました。内郭にある代表的な門が、瑞泉・漏刻・右披・淑順・白銀・美福などです。

建物は内郭に集中していました。心臓部ともいえる場所が、御庭と呼ばれる広場に面して建つ正殿・北殿・南殿・番所、そして奉神門です。正殿は、首里城の顔ともいうべき施設で、琉球最大の木造建築物でした。

正殿の東側には二階殿・世添殿・世誇殿などの建物があり、その一帯を御内原と呼んでいます。国王とその家族、女官神女たちの居住地域でした。正殿の西側は政治・行政センターとしての役目を持つさまざまな役所の建物がありました。

第二次世界大戦により、根こそぎ破壊されていた首里城ですが、昭和33年ごろから復元工事が少しずつ進められ、平成4年に、正殿をはじめとする城郭全体がほぼ復元完了、首里城公園としてよみがえっています。

13.那覇の街にそびえる首里城は、現代沖縄のシンボルであり、琉球の伝統文化・技術を結集した巨大モニュメントだ。かつて米軍統治下の沖縄に旅した人が必ず訪れたのが、首里城の大道という大手道に構えられた守礼門であった。この守礼門は昭和33年(1958)に復元され、平成15年(2003)には改修されて、より鮮やかな色彩を放っている。

この復元守礼門と、門を入った所にある首里城への石門の2つだけが、米軍支配下の沖縄で琉球の歴史を伝える遺構だったのである。

首里城は城であって城でない?

城は、現在の那覇市首里当蔵町に建つ城だ。
築城年は不明だが14~15世紀末頃ではないかといわれている。

文献上に現れるのは、琉球王国第二尚氏・尚真玉、尚清王の時代(1477~1555年)になる。
この頃に、石垣が二重になり、門を設けるなどの整備がされ、いま見られるような姿になったようだ。

沖縄県内最大規模の城。首里王朝の王城で、海外貿易が盛んであった。その繁栄は第二尚氏の代にも引き継がれ尚巴志が琉球王朝を統一すると、首里城を王家の居城として用いるようになったが、史書に記載されているとおりこの城は幾度もの焼失に見まわれた。その後、沖縄県配置に至る琉球処分以降は、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、現在の首里市の管轄になり学校などとして利用された

しかし、この首里城には、城の代名詞である天守もなければ堀もない。戦を中心に考えられた日本のほかの城とは明らかに違っているのだ。なぜなら1879年に城が明治政府に明け渡されるまで、そこが琉球王国という独立した国だったからだ。

琉球は、中国文化の影響が強く、そこへ日本文化をミックスしたような独特の文化を作り上げてきた。首里城も、日本の城というより中国の宮殿と呼ぶにふさわしい造りだ。ただ、双方の国と交流があったことから、使者を受け入れる施設にも和風と中国風があったことが知られている。

縄張は、加工しやすい石灰岩を積み上げた中国風の曲線を帯びた石積みで固まれている。そもそも沖縄では「城」と書いて「グスク」と読むのだが、「グ」は石、「スク」は囲いという意味。石垣に囲まれた場所がつまり城なのだ。

城内には王家の施設のほか、信仰上の聖地や行政機関の施設などもあり、官公庁の集合体のようなものだった。点在する門が役所的役目を扱っていたことも特徴のひとつだろう。

たとえば現在は発券所になっている「広福門」は、神社仏閣を管理したり司法を管理する機関であり、また「漏刻門」は、日時計や漏刻(中国語で水時計の意)を使って時間を管理する機関だったといわれている。



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