龍造寺隆信は残忍だったゆえにみんなから嫌われていた

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龍造寺隆信

遺骸を職場に放置されて首の返還も拒絶される
1. 冷酷度5
腹黒度5
変態度1
鬼畜度5

人をまったく信用しない隆信だけに、臣従してきた者たちからは多くの人質をとっていた。肥後の豪族である赤星氏が離反しようとした時には、人質にとっていた二人の幼子を無慈悲に処刑。

しかも、見せしめのために残忍な串刺し刑に処したという。 ここまで血も涙もない男では人心も離れる。どんなに恐怖で支配しても離反する者は相次ぎ、その度に彼は皆殺しという苛烈な手段で対処してきた。

恐怖で支配する以外に、統治の方法を知らなかったのか?島原半島の領主である有馬晴信が離反した時も、2万5000人という大軍を自ら率いて侵攻。有馬一族を皆殺しにして粛清するつもりだった。

これに対して有馬晴信は、薩摩の島津氏に救援を要請。島津氏からの援軍は到来したが、それでも龍造寺軍の圧倒的優位は覆らず怒涛の進撃はつづく。

しかし、島津氏の罠が待っていた。龍造寺軍団が沖田畷なる湿地に差しかかった時、これを包囲するように潜伏していた島津の鉄砲隊が一斉射撃。龍造寺軍の将兵は次々に血祭りにあげられ、この頃は肥満して乗馬できずに輿に乗っていた隆信も銃撃により負傷。

すると、輿を担いでいた家臣たちは我先に逃亡し、取り残された隆信は島津軍によって首を討たれてしまう。 さらに彼の遺骸を放置したまま龍造寺軍は撤退。

この後、島津氏側は隆信の首を返還しようとするが、家臣団はこれも拒絶。顔さえ見るのも嫌というほど嫌われていたのだろう。これも自業自得か



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