城に関する疑問を解決して城めぐりをより楽しく
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城に関する疑問質問コーナー
石落しなどのほかにも、戦時に対する珍しい工夫はありますか?
1.堀には色々な種類があります。水堀に対して空堀、横堀に対して縦堀などです。このうち縦堀は、基本的に山城に配置される防御施設です。
縦堀の目的は、山上にある由輪にむけて敵兵がよじ登ってくる際に、斜面の横移動をできなくすること。2・3本以上を連続して配置する例や山上の曲輪の四方すべてに配置する例などが多数見受けられます。
これらは畝状縦堀群(うねじょうたてぼりぐん)などと呼ばれ、ひとつひとつの縦堀の底にわざと敵兵を誘い込み、列を成してよじ登ってくる敵を城内側から一人ずつ狙い撃ちができるようにする施設と言われています。
城にはさまざまな施設がそれぞれの目的で開発されてきましたが、これらの組み合わせや配置の仕方によってさらなる新しい防御施設の開発が可能でした。
天守の屋根に鯱が乗っているのはどうしてですか?
2.災難除・火災除の信仰の一種で、まじないの意味があるといわれています。それを城の象徴である
天守に乗せることにより、城そのものを災難や火災から守る意味が込められていました。また、名古屋城で有名な黄金の鯱は、城主の権威を示す政治的な意味が付加されたものともいわれます。鯱の起源も、やはり織田信長の
安土城からとされています。
3.「籠城」に備えた戦国ならではの工夫ってありますか?
例えば、「植物(うえもの)」というものがあり、城の内外に植物を植栽する行為があります。これは蔀(しとみ)や第(かざし)、つまり目隠しに用いたり、食物・医薬・矢や槍などの武器用材などになるものが植えられていました。
石垣にも同じく流行があったって本当ですか?
4.石垣の構造は面を形成する築石(つきいし)とその裏側の栗石層からなります。このような石垣が大量に城郭に導入されたのは織田信長の安土城からと言われています。それ以前は栗石層がなく、切岸に石を貼り付けるように積まれた、いわゆる石積みというものが城には多くみられました。ここでも
信長の安土城によって大きな変化がもたらされたことがわかります。
流行というよりは、鉄砲の導入など主に合戦のやり方によって変化していきます。日本築城史上、もっとも築城スタイルに変化をもたらしたのは、織田信長の居城・安土城といわれています。安土築城以前のほとんどの城は土を造成して堀を掘り、土塁を盛り、防御する空間を造り出したところに、小屋や権などを建てるというもので、まさに戦闘をする場でした。
ところが安土城の築城になると、山全体を造成した後に、総
石垣とし、石垣の天端に礎石建ちの建物を配置し、その建物には瓦が葺かれるようになりました。これまで平面的に広かった土造りの城から、重層建築を取り入れた石垣造りの城へ、いわば二次元から三次元の城へと変化したといっていいでしょう。
これ以後、豊臣
秀吉による
大阪城、
徳川家康による
江戸城などが代表するように、この築城スタイルが主流となっていきました。このような城を現代人は「お城」と認識しているわけです。
大きな戦がなかった江戸時代では、 お城はどのような役割を果たしていたのですか?
5.人は住んでいたのでしようか。
みなさんはよく「お城(御城)」と呼ぶと思います。これは「城」に尊敬語の「御(おん)」をつけた言葉です。
「城」は元々単純に「軍事的目的を持った防御施設」であり、基本的には守りやすい山地に立地していました。その麓では領主が館(居館)を構えて地域を支配し、合戦が起これば、城に篭り戦ったというわけです。
ところが織田信長が安土城を築いた時期を境に変化が現れてきます。住むための館の機能と戦闘空間である城の融合です。これらを総称して「城」が誕生するわけです。当然、領主もこの中で住むようになります。江戸時代になってもこの形が続いていきますが、この頃には「城」=「領主(大名・殿様〕」という考え方が定着し、我々が一般的にいう「お城(御城)」となったというわけです。ちなみに城の主は基本的に天守(天主)ではなく本丸御殿に住み、時代が経つにつれていわゆる二の丸御殿などに住む場所が変わっていきます。
天主(天守)に住んだのは織田信長ただ一人といわれています。
そのほか、「ここに注目すると、城めぐりが楽しくなる」というポイントがあれば教えてください。
6.一般的に「城」といえば「天守閣」というイメージで捉えられていると思います。しかし「城」は本来「軍事的目的をもってつくられた防御施設」であり、堀や土塁なども含んだ総称なのです。「天守閣」はあくまでその一部。平安時代末期から幕末にいたる750年間の日本城郭史上においては後ろのほうの約300年間の中で登場。維持されてきたものです。
また「天守閣」という用語も明治時代以降の呼び方であり、正確には「天守(天主)」です。 城に対する多くの誤認を解いて、本当の意味での「城めぐり」ともなれば、ひとつの城を制覇するのに1日がかりとなることは稀なことではないと思います。その際、ほとんどの城で残されているのは建物ではなく、地面に刻まれた堀や土塁などの防御施設です。
これらは、各々の城で組み合わせや配置が異なり、一種の個性を現しています。これを「縄張り」といいますが、城に行って歩き回り、この縄張りを把握することによって、さまざまな城の軍事的な工夫を知ることができるし、築城者や守備隊の思いが読み取れます。そこからその時代背景や武将などの人物像まで読み取れる可能性があります。城郭建築が残っている城の大半が江戸時代に入ってから築かれた城ですが、城の縄張り(平面構造)に注目することによって、それ以前のいわゆる中世城郭にまで城めぐりができるようになります。
一番規模が大きい城は?
A.江戸城。
東西6km、南北5kmに及ぶ史上空前の城郭都市であった江戸城。その面積は230万m2に及び、江戸城に次ぐ大きさを誇る名古屋城の3倍もの大城郭だった。世界中の城のなかでも有数の規模といえるだろう。ちなみに本丸にあげられた天下統一のシンボルである豪快な天守は、なんと64mもの高さを誇っていたという。
売れっ子築城家といえば
A.藤堂高虎が有名です。
戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名であった藤堂高虎は、築城技術に長けていたことでも非常に有名。宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などが彼の手によって築城された。同じく築城の名手として、熊本城や江戸城、名古屋城を手がけた加藤清正も知られている。
現存する最古の天守は
A.1576年の丸岡城の天守。
柴田勝豊によって1576年に築城された丸岡城の天守。
独立式望楼型二層三階という構造をもち、大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から、現存最古の天守といわれている。ちなみに屋根瓦は笏谷石製の石瓦。中世の戦国時代そのままの姿はどこか荒削りな美しさをたたえている。歴史の重みを感じさせる、風格ある天守だ。
現存天守で最も高いのは
A.姫路城の31.5mがトップです。
池田輝政が築いた姫路城の連立式望楼型五層六階地下一階の天守が31.5mでナンバーワン。次いで松本城の複合連結式層塔型五層六階の天守が25mの高さで2位をマークしている。3位は堀尾吉晴によって建てられた松江城の22.4mを誇る複合式五層六階望楼型天守。当時の姿のままいまなお残る現存天守はやはり見ごたえがあり、本物の城と称される。
城の主になりたい
A.熊本城に一口城主制度があります。
城好きが高じて城主になりたくなってしまった方には、熊本城の「一口城主制度」がオススメ。1万円以上を寄付すると一口城主になることができ、城主証をもらうとともに自分の名前が芳名板に記載され、天守に掲示されるというもの。手軽に城主気分を味わうことが可能だ。この募金は熊本城の復元整備事業の財源として使われる。
城っていくつあったの
A.時代により数が異なります。
日本にはいくつの城があったのか。
原始の縄文後期から弥生時代の城郭ムラ(環濠集落)を含めるとおよそ8~10万。歴史時代(飛鳥時代)以降は約3万~5万。中世と近世(鎌倉~江戸時代)では約2万5000。幕末の大政奉還時には約250の城郭と1000力所の台場築城(砲台を据えた城)が存在していた。
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