愛媛県・大洲城|交通の要所で政治と経済の中心の城下町だった

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大洲城について
肱川のほとりに建つこの城は、元弘元(1331)年、鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房によって築城されました。

大洲城の創築は南北朝騒乱期で宇都宮氏が居館を営み、その後大野・河野氏の持ち城となった。1595年に入城する藤堂高虎により石垣が築かれ、築城は慶長14年(1609年)入封の脇坂安治、さらに加藤貞泰に引き継がれた。

大洲城は、鎌倉時代初期、河野通信が砦を構えたのが始まりといいます。本格的な築城がなされたのは、元徳3年(元弘元年・1331)伊予国守護職に任ぜられた宇都宮豊房が大津(大洲の旧称)を本拠としてからのことです。宇都宮氏は代々大津に居住しましたが、八代豊綱の時、道後湯築の河野氏と戦って敗れ、滅びました。

その後、さまざまな城主に代わりますが、藤堂脇坂氏の時代に近世山城としての構えが整えられたと思われます。大洲城は、肱川が大きく北へ曲がる西岸一帯が城地で、肱川に臨む比高20メートルの地蔵ケ岳を削平して本丸とし、西と南の麓に、小さく区画された二の丸を配しました。

城下町は、水堀を挟んだ東方に所在し、町中には古い蔵屋敷が立ち並んでいます。肱川の流れに沿い、東西に長い町割りがなされました。天守を含めた多くの建物が明治以降に取り壊されましたが、現在城跡は、城山公園となっています。本丸・二の丸跡や、堀・石垣などをよく残しており、県の指定史跡にもなりました。

本丸跡の高欄櫓と台所櫓、肱川河畔の二の丸跡に建つ苧綿櫓、三の丸西の門近くにある南隅櫓が国の重要文化財に指定され、現存しています。公園内には桜が多く、肱川の清流を見下ろす眺めも最高です。大洲の町は、城下町時代の面影をよく残し、「伊予の小京都」とも呼ばれています。


平成16年(2004)9月、大洲城に、古式の技法によって再築された木造天守が竣工した。この復元天守は、四層四階づくりで、高柵櫓と台所櫓を多聞櫓で結んだ複合連結式天守である。現存する高欄櫓と台所櫓は小天守にあたる。

松本城・広島城と同じく小天守二基を多聞櫓でカギの手状に結んでいるわけだが、高欄櫓は、廻縁を伴いからはふが飾られる本格的な天守づくりである。台所櫓は、籠城時に本丸と天守に楯籠る城主とその一族、将兵たちの兵根を賄う調理場となる建物である。

復元にあたっては、取り壊し以前の天守の姿を撮影した古写真が数葉あり、また城主の未商加藤家に多くの図があり、藩の作事方棟梁中野家には天守の木組みが判る天守雛型模型があった。その上、発掘調査を実施、天守の土台、雨落、柱位置などを確認している。したがって今般の大守復元は、完璧に近いといえよう。

大洲は伊予を南北につなぐ大洲街道と、宇和島と大洲を結ぶ宇和島街道がちょうどぶつかるところであり、東には四国山脈を抜けて土佐国へ出る街道もある。

西には大洲の外港とも言える八幡浜もあって、古くから交通の要所になっていました。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は栄えていたと言います。

明治維新以後、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民たちの活動により、本丸の天守は一部保存されました。

しかし、結局、明治21(1888)年、老朽化により天守は解体されてしまいます。最近になって、また地元住民の保護活動が盛り上がって、平成16(2004)年、四層四階の複合連結式天守がとうとう復元されました。

肱川の河畔に建つこの木造天守は、明治時代の古写真や天守雛形と呼ばれる江戸期の木組み模型など、豊富な資料に基づき、今の姿を取り戻したのだとか。しっかりと研究されて再建されただけあって、周りの景色によく馴染んだ美しい姿を見せています。


大洲城
国重要文化財 台所櫓、高欄櫓、三の丸南隅櫓
別名 比志城(ひしじょう)、地蔵ヶ獄城(じぞうがたけじょう)
分類 平山城
築城年 鎌倉時代末期、文禄4(1595)年
築城主 宇都宮豊房、藤堂高虎
主な城主 宇都宮氏、戸田氏、藤堂氏、脇坂氏、加藤氏
愛媛県大洲市大洲903


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