丹羽長秀は能力の高さから織田四天王のひとりと数えられる
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丹羽長秀について
1.
1535年丹羽長政の次男として尾張国に生まれる。丹羽家は斯波氏の家臣であったが、長秀は信長に仕える。梅津表の合戦に19歳で初陣。その後稲生の戦い、桶狭間の戦いなどに従軍。
永禄5年(1562年)27歳で美濃国併呑を目指す信長に、本拠地となる小牧山築城の奉行に抜擢され、優れた築城能力を発揮。
翌年に完成した小牧山城を拠点にした、数々の戦いでも武功をあげ、柴田勝家と並ぶ武将として「鬼五郎左」と呼ばれたが、信長治世末期には柴田勝家、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉などの下に見られ、知行にも大きな差があったことを見れば、軍事よりも行政能力、築城能力に優れ、その実力で「織田四天王」と呼ばれるひとりに数えられるのだろう。
天正4年(1576年)には総普請奉行として、岐阜と京都を結ぶ交通の要所として、観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。5年以上をかけて作られた安土城は、石垣に天主があがる城となり、その後に作られる城の礎となり、安土築城のため佐和山城を改修させ、城代とした。織田家において柴田勝家に次ぐ二番家老の席次を見てもその能力の高さが窺える。
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