京都府・二条城|徳川家康が築城した国宝になっている二の丸御殿
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二条城(京都府京都市中京区三条通)
二条城について
二条城は金閣・銀閣・清水寺と並んで京都を代表する観光地である。修学旅行など団体で訪れた人のほとんどは国宝二の丸御殿を見学して、その絢燗さに圧倒されて帰ってしまい、本丸や西側には足を運ばない。
本丸に人々が訪れるのは、本丸に移築保存された桂桝邸が年数回一般公開される時だ。椎宮邸は本丸御殿と称しているが、城郭建築ではなく公家貴族邸で、二条城が城の機能を失ってからの移築建築である。
二条城中を二の丸から北ないし南へ本丸の水堀に沿って歩くと、北も南も共に中仕切門がある。この二つの中仕切門を南北に結んだ線の東側が家康造営の二条城の範囲で、家康時代の
天守は北中仕切門脇にあった。
豪華絢爛の二の丸御殿は、日本文化円熟の桃山時代を代表する建築と庭園からなる。御殿建築は書院造で、床の間、付書院、帷台描が上段に設けられ、狩野派絵師による、松をはじめとする植物、虎や麓などの鳥獣、中国の説稲が主題の障壁画群が室内を飾る。現存する書院建築では最古の遺構である。
信長・秀吉・家康と天下を制した天下人は、一様に二条に城を築いた。現在遺構の見られる二条城は、徳川家康が慶長7年(1602年)に築き始め、三代将軍の家光が寛永初年に改修したものである。
家康創築のニ条城は、現在の二の丸部分にあたる単郭の城であった。これを西側に拡張し、本丸、二の丸の複郭に改めたのが家光であった。現在天守台が残されているが、五層五階白亜の層塔式天守が建てられていた。
慶長5(1600)年の
関ヶ原の戦いに勝利して、天下を手中に収めた
徳川家康は、翌年、京都御所の守護と将軍上洛の折の宿泊所として、この二条城の造営を開始、寛永3(1626)年、3代将軍家光のときに完成しました。
3代将軍の頃までは、朝廷からの勅使を迎えて征夷大将軍宣下を受ける舞台となりましたが、幕府が安定するにしたがって、将軍上洛の必要はなくなり、使用されなくなっていきます。
再び歴史の表舞台に登場するのは、幕末、京都が政争の中心地になってからのこと。このとき再び将軍上洛時の居城となり、やがて慶応3(1867)年、旧代将軍慶喜はここで大政奉還を宣言、ある意味、江戸幕府の始まりと終わりを演出した重要な場となったわけです。
ここで何と言っても見ておくべきものは、国宝となっている二の丸御殿でしょう。桃山時代を代表する武家書院風造りの御殿建築で、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が、東西から南北にかけて雁行に並んでいます。
ここには
3000面以上の障壁画が残され、そのうち954面が国の重要文化財に指定されています。幕府御用絵師であった狩野探幽率いる狩野派の手によるこれらの絵の素晴らしさには、言葉を失うほどです。
二条城
国宝 二の丸御殿など
国重要文化財 本丸御殿、二の丸御殿唐門、東大手門、北大手門、東南隅、西南隅
櫓など
分類 平城
築城年 慶長6(1601)年
築城主 徳川家康
主な城主 徳川氏
京都府京都市中京区三条通
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