日本の城が世界と比較して違うところ
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日本の美は城に集約されている
1.
日本の城は、日本人の知恵と美意識が生んだ総合芸術作品である。寺院・神社・民家などの建築は、中国・朝鮮半島の技術が導入されて成立される。民家に至っては西洋館とか明治中期以降のピル建築に見られるように西欧の技術・美意識が生かされる。
日本の城、とりわけ天守という、三層もしくは五層を数える。
層重の建物は、中国・朝鮮にはない。仏塔である塔建築は、塔身に階を区切り屋根をつけるもので、城郭建築にみられる層階を重ねるたびに縮小する技術とはまったく異なる。
さらに日本の城は優美にかつ壮大に見せるため、屋根に破風と呼ぶ飾りをつけ、破風や軒先に心地よい角度で反りをもたせる。
この破風と軒反は、天守や櫓が建つ台である石垣と一体となって、より壮麗さを増す。
石垣は中国・西欧諸国に見られない美しい弓状にカーブを描いて斜め勾配で積まれる。中国・西欧の石垣は直立するか急勾配直線状で積まれ、日本の城石垣に見られる角石垣はない。中国・西欧の石垣技術には角を直角状に積む技法はなく、丸い角にするのだ。
では屋根の勾配と石垣の反りはなぜ日本で生まれたのか。答えは日本人誰もが見て美しいと感じる「富士山」にある。末広がりの八の字を描き、雄大かつ華麗な勾配を描く姿は、私たちの美意識の根底にある。日本人のDNAに富士山の美は組み込まれているのではなかろうか。
破風にはいろいろな形がある。
一番多様されているのは最上層屋根の入母屋破風で、まさしく富士山の勾配を有し、大棟両端には日本人が産み出した龍の頭と魚の胴体・尾が一体となる「水を呼ぶ呪い」である鯱が飾られる。ちなみに鯱は漢字ではなく和字である。千鳥破風は三角の飾りで、入母屋を小形化したもの。3つの千鳥破風(上層ひとつで下層にふたつ)が組み合わさり、組千鳥となって3つの千鳥で末広がりの雄大な美の造形を演出。三角形の千鳥に対し、逆V字形の切妻破風は、軒ラインに切り込み建物全体を引き締める。
唐破風は唐の字があてられるが中国にはなく日本の造形。柔らかく丸い軒のラインをもち、優雅さを建物全体に与えている。
幕末に西欧人が開国した日本を訪れ、唐破風の造形美に驚かされ、西欧の建築デザインに大きな影響を与えた。
姫路城に代表される日本の城の造形美は、日本人の感性が産んだ「いつまでみても飽くことがない」日本人の心の形なのだ。
日本の城と世界の城
2.
天守をあげる
天守とは一城の象徴的な建築であり、大いに飾り立て、その城主の武威と富の象徴であり、その城主の領国(正式には分国という)の顔となる。日本の城で天守が本格的に登場するのは、織田信長による天正4年(1567年)から5年を費やして竣工した安土城以降のこと。
安土城は天守といわず天主と記した。
天主、殿主、殿守と記されるのはそれ以降で、天守閣と閣の字がついたのは、岐阜城に明治43年木造で、大坂城に昭和7年鉄骨コンクリート造りで復興した天守閣からだ。
天守は建てるといわず、あげるという。これは、その発生が主殿建築の大棟(大屋根上)に望楼をあげたことに、その起源があるからだ。
日本の城にみられる一城を象徴する天守のような建造物は、中国、朝鮮半島にはみられない。
西欧では、天守に相当する一番大きく、一城の中心(戦時、司令部が置かれ、城主の居所となる櫓)を英語ではキープタワー、ドイツ語ではドンジョンというが、ただ大きな石塔であって、これといった装飾はない。中東や南米の城郭は、宮殿を囲む城壁とその周囲の街場を囲む城壁がめぐり、天守に相当する建造物はない。
ひいていえば、中国、朝鮮半島、中東や南米の城の一城を代表する象徴建造物は宮殿と正門にあがる門楼である。ヨーロッパの一城の象徴的な建造物といったら、必ず城主がいる城の中心部と双立する教会の堂塔である。
堀の役割も世界と日本で違った
日本では原始の時代、すなわちいまから4000年から3500年前に築かれた城郭ムラである縄文集落に、堀を掘って堀りあげた土砂で土塁(土手)を築くようになったことが最近の考古学的調査成果で明らかになった。
弥生時代の紀元0年から2世紀にかけて、弥生時代の集落のほとんど(すべてという説も有力)が堀と土塁をともなった城郭ムラであった。堀を造ることは内側に盛られた土塁上から堀の外側に寄せ来る敵との間に戦闘距離を確保することにほかならない。
江戸時代以前の堀は、水が入らない空堀だから掘底に入った敵と土塁上までが、次の戦闘距離になる。日本に長柄鑓という長い鑓が普及する永禄・天正の時代(16世紀中ごろ)までの中世の堀の幅は平均して4~8m、長柄鑓が普及したのちは、鎚の長さを意識して堀幅は12m平均に。それ以降、鉄砲(火縄銃)が武器の主流となると20~30m、中には100mに及ぶ水堀が出現する。
こうした日本の城の堀という防御ラインの考え方は、中国、朝鮮半島、中東の城にはまったくない。万里の長城、北朝鮮にみられる千里長城、ヨーロッパにみる古代ローマの城壁と石壁で区画する中世の騎士の城がこれである。ヨーロッパではゲルマン民族の後柄がドイツやフランスで築いた中世の都市城郭や、城の外郭に空堀がみられる城郭があるが、日本のように堀を防御の最大ラインとしてみておらず、幅は狭い。
石垣の積み方も日本ならでは
日本では3世紀中ごろから古墳の石室にみられる石積技法が現れる。4世紀前半には巨大前方後円墳が、巨石を積み重ねた石室、羨道をともない、古墳表面にびっしりと葺石を覆う形で出現する。
巨大古墳の石積技法は5世紀前半に極楽寺ヒビキ遺跡(奈良県御坊市)の葛城氏と推定される王宮になって結実。5世紀後半には三ツ寺遺跡(群馬県富岡市)のような古代豪族首長の居舘のように総石垣づくりの古代城郭が各地に現れる。
したがって「日本書紀」に記される664~670年に百済からの渡来人によって唐、新羅両国の来襲に備えて築かれた金田城、大野城、橡城などの石垣の諸城は、本当に朝鮮半島からもたらされたものか。
答えは否である。朝鮮半島百済には、7世紀には石垣を積む技術は存在しなかったのである。日本古来の固有の技法をもって、百済からの渡来人の指導で古代山城は築かれたのだ。
半島ばかりでない。中国の万里の長城を訪れれば一目瞭然。
城壁のほとんどが、せんと呼ぶ煉瓦でできている。八達嶺のような石材が豊富な長城地区には石垣が用いられているが、積石は方形に整形され、規則正しく積まれる。西欧の中世、近世の城郭・宮殿もまた方形に切り出し整形された積石が規則的に積まれる。
ところが日本の石垣は、ほとんどが割ったままの石材を積みあげる。大小さまざまな積石で、合石・小詰といって積石の間に小さな石を噛ませている。表の石垣の内側には、詰石・栗石といって、細かな小石が詰められる。ともに中国、西欧の石垣には見られない。これは雨が多い日本の石垣ならでは。排水を工夫し、石がはらんで崩壊するのを防ぐための知恵である。一見して粗雑にみえる石垣は、また厳しさを感じさせる日本人独特の美意識が働いてもいるのだ。
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