石川県・七尾城|謙信に総攻撃を決意させた白米作戦とは

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七尾城(石川県七尾市古城町)

七尾城について
1. 七尾にはふたつの七尾城祉がある。ひとつは畠山氏が拠って上杉謙信が攻め落とした七尾城、もうひとつは市街地の小丸山公園に前田利家が築械した七尾城である。

七尾市の南東、標高350メートルの松尾山には、室町時代の能登守護・畠山氏の居城がありました。それが七尾城です。城跡の壮大さから、わが国の五大山城の1つに数えられ、昭和9年には山頂を中心に国の史跡に指定されています。

しかし戦国時代の天正5年(1577)、上杉謙信に攻められ、城内の重臣の反逆もあって、天然の要害、難攻不落を誇った七尾城も落城してしまいました。謙信の「霜は軍営に満ちて秋気清し・・・」という「9月十三夜の詩」は、この時、本丸台に立って野画責みの石垣が城の古さを引き立たせ詠んだものとも、後世の人が謙信の気持ちを察して詠んだものともいわれています。

七尾城は、松尾山のみならず、松尾山を中心にして七つの尾根に広がる広大な山城です。山は急で谷は深く、山の全域に本丸、二の丸、三の丸、西の丸、調度丸や多くの曲輪が広がり、石垣などの遺構をよく残しています。本丸跡に立つと、展望がよく、七尾市街を眼下にして能登島、さらには奥能登地方まで望むことができます。

七尾城への登山口近くに七尾城史資料館があります。館内には、「畠山由来記」など畠山氏にまつわる古文書や、戦国時代の七尾城の一端を偲ばせる武具・薙刀・槍などの遺品・遺物、七尾城の立体模型などが展示されています。ちなみに七尾城の名は、松尾山の七つの尾根(菊・亀・虎・松・竹・梅・龍)に由来します。

米があったのに籠城に失敗した城があった
2.1576(天正4)年、上杉謙信は、越中を次々と平らげ、能登半島を目指していた。そのときに標的となったのが七尾城だ。

七尾城は正長年間(1428~29年)に畠山満慶が着手し、7代目の義総のときにほぼ完成したとされる。標高350メートルの松尾山に築かれたこの城は、東西を川が流れて天然の堀を形成し、山頂の本丸までは険しい道のりが続いていた

天然の要害に囲まれ、屈指の山城とされていたにもかかわらず、どうして七尾城は落ちたのだろう。

謙信が攻め込んだ1577(天正5)年頃、たしかに七尾城内は混乱していた。前の城主が家臣に毒殺され、わずか5歳の春王丸が城主となっていたのだ。籠城策をとったものの、城内に疫病が流行り、春王丸も亡くなってしまったのである。

とはいえ、さすがの謙信も七尾城攻略にはてこずり、籠城戦は1カ月以上にも及んでいた。そんなとき、謙信に総攻撃の決意をさせたのが「白米作戦」だ。

籠城戦にまつわるエピソードのひとつに、白米伝説というものがある。これは、城内の水不足を悟られないように、敵から見える場所に白米を流して水に見せかけるという方法だ。

七尾城でも、この白米作戦を行った。ところが、滝に見える流れに鳥が群がってついばみ始めたため、謙信はこれが水ではなく米だと感づいたという。城内に水がなければ、兵の体力も落ちているはずだ。そこで、一気に攻め込んだというわけである。

謙信は城内に内通者も作っており、内部からの寝返りもあった。だが、敵を欺くために行った白米作戦が、七尾城陥落のきっかけを作ったというのは何とも皮肉な話である


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