鍋島直茂は怖い君主隆信や隣国島津氏とバランス良く渡り歩いた
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鍋島直茂
戦術5
知力9
政治力8
忠誠心5
運7
怖い主君に意見できた唯一の人物だった
1.
「肥前の熊」と恐れられた猛将・龍造寺隆信は、猜疑心が強く粗暴で残忍。家臣にとってはやりにくい主君だった。
その腹心として版図の拡大に働いた鍋島直茂は、隆信と義兄弟の関係にある。隆信の実母は、直茂の父に継室として嫁いでいた。
直茂は思慮深く人あたりもよい。まったく正反対の義兄弟は、なぜか馬が合った。直茂だけは隆信から信頼されて、合戦や内政にもその意見を取り入れられることが多かった。また、
怖い隆信に面と向かって意見や諌言ができる家臣は、直茂が唯一だったという。
冷静な対処で滅亡の危機を脱する
2.直茂の働きもあり、龍造寺氏は九州北部の大半を制圧した。しかし、その絶頂期である天正十二年(1584)島原半島へ出征して島津氏と戦った隆信は、油断から奇襲を受けてあえなく戦死。主だった武将の多くが戦死し、龍造寺軍団は壊滅的被害を受ける。
からくも生き残った直茂は、家臣団をまとめて軍団を再編。隆信の死で緩んだ支配体制を立て直し、島津氏の侵攻に対処。本拠の肥前を守り通したその手腕はみごとだった。
その後も、隆信の嫡子・政家を重臣筆頭として補佐し、島津氏と休戦しながら、秘密裏に豊臣政権に接近。勝ち組に与する抜け目のない外交手腕を発揮する。
やがて、無能だという評判のあった主君に代わり、
秀吉の命によって肥前の大名となった。
しかし、主家である龍造寺氏を最後まで保護する律儀な一面もあった。この清濁併せ呑むバランス感覚があればこそ、窮地の龍造寺氏を救えたのだろ
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