愛媛県・松山城|日本三大平山城のひとつで築城のノウハウが集約されている
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松山城
1.
賎ヶ岳七本櫓のひとり加藤嘉明の手による築城。別名、金亀城または勝山城ともいう。
嘉明は、寛永4年(1627年)松山城の完成を前に海津藩へ転封となった。以後、寛永4年に入封した蒲生忠知に引き継がれるが、そのほとんどが嘉明の計画によるものと思われる。天守内は楼型櫓で、深さ44mに及ぶ本丸の井戸などが保存されており、残存する天守をはじめとする建造物は国の重要文化財に指定されている。
松山城を創設者したのは加藤嘉明です。慶長8年(1603)に道後平野の中枢部にある、標高132メートルの勝山に城郭を築き、松山という名が公にされました。その後も工事は続けられて、24年後の寛永4年(1627)になってようやく完成しています。当時の天守は5層で、偉観を誇りました。
寛永19年、天守は3層に改築されましたが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失してしまいます。文政3年(1820)から再建工事に着手、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興がなりました。これが現在の天守です。
その後昭和に入り、小天守やそのほかの櫓が放火や戦災で焼失しましたが、昭和41年から全国にも類を見ない木造による櫓や門の復元工事が進み、二の丸庭園も復元されました。
現在は天守・乾櫓・紫竹門・一の門と同南櫓・隠門・戸無門など21棟が重要文化財に指定されています。
天守は、大天守と小天守三つを渡櫓で結んだ連立式で、天守としては美しい形態です。大天守は頭が大きく、城郭建築としては不均衡ですが、武骨さがあって独特の外形を示しています。
屋根にそりがなく、窓が大きいことも特徴の一つでしょう。また天守からの眺望は、すばらしいの一語に尽きます。また二の丸は美しい扇勾配の石垣となっています。
松山城は姫路城、和歌山城と共に「日本三平山城」に数えられる。近世城郭で最も美しく映える城、堅固な城構の城として姫路・和歌山に並ぶもの、というわけだ。城は標高132メートルの勝山の山頂部にある本丸、南中腹部の二の丸、麓の三の丸という三区画からなる。
松山城へはロープウェーで登って天守にあがり、雄大な景観を楽しむのが一般的なコースで、これは本丸の見学コースである。ところが最近、松山城見学を楽しむ方法が大きく変わった。ロープウェー乗り場と反対側の二の丸を訪れ、二の丸御殿から松山城の景観を楽しむ人が増えているのである。
丸亀城が小さいけれども高く見えるのと対照的ですね。大天守、小天守、北隅
櫓、南隅櫓を多間櫓でつないだ連立式天守の形式。
側に行くと非常に大きいのですが、小さく見えてしまって、下から上がってくると、最後の本丸に入るまで天守閣が見えない造りになっています。途中には門がたくさんあって、これは見応えあり。戦略的な面白さを味わえます。
松山城本丸は、標高132メートルの山頂にあります。歩いて登ることもでき、江戸代の名残を感じることができます。所要時間は、元気な方で20~30分程度といったとこです。
しかし、体力に自身がないという方もいらっしゃるでしょう。そんな方には8合目付近まで運行しているロープウェーかリフトの利用がお勧めです。チケットは共通券となっていて、どちらでも好きな乗り物を選べるのが特徴です。
築城ノウハウが集約された城
2.松山城の名城たる所以は「城本来の砦としての役割」にとことん秀でているからだろう。
築城者である加藤嘉明は、豊臣の「七本槍」に数えられ、加藤清正・藤堂高虎と並ぶ「築城名手」として戦国の世で3指に数えられるほどの人物。その
築城ノウハウが集約された城なのである。
ところが嘉明が、この名城の完成を見届けることはなかった。彼は26年もの歳月をかけたこの城の完成直前にして、遠く会津の地に異動させられてしまったのだ。
時の大御所・徳川秀忠は、初めは高虎に会津への転封を薦めたそうだ。ところがそれを固辞した高虎は「東北の要衝を任せるに足る人物は、嘉明しかいない」と推挙したという。
一見美談であるが、ことは大猿の仲で知られていた高虎と嘉明のことである。
嘉明が心血を注いだ城の完成日前のタイミングを考えると、別の側面も見えてくる。ちなみに、嘉明は会津への転封後数年で死去している。
果たして嘉明は無念の内の死を迎えたか、会津を任された感謝に死したのか…
歴史が生んだ、光と間を想いながら、城を歩くもよいだろう。
日本3大平山城のひとつ
3.城下で育った正岡子規が「秋より高い」と詠んだ松山城。誰もが人を仰ぎ見るかのように眺めてしまう、日本3大平山城のひとつである。
初代城主。加藤嘉明は、
関ヶ原の戦で伊予20万石を与えられ、およそ四半世紀かけて城と城下町を建設。攻守ともに優れ、これほど多くの櫓や間が級密に配置された縄張をもつ城は全国でも珍しい。
加藤、蒲生両氏の後に松平氏が城主となるが、途中5層あった天守は3層に改築され、さらには城の建設が自粛される中、火災の憂き日にもあっている。
しかし黒船来航の翌年には完全な形で天守が再建。この時に刻まれた葵の御紋は、現存天守のなかでも唯一のものだ。現在、山頂にある城へはロープウェーを使い15分ほどでアクセスできる。城攻めする足軽の気分で、罠が張り巡らされた櫓や門を通るのもよし、大天守から美しい松山平野、瀬戸内海の島々を城主の気分で見渡すもよし。
見どころ&城情報
現存みどころ 筒井門
伊予松山城には多くの遺構があるが、なかでも筒井門は正門にあたる西側の門と、付櫓と櫓台石垣で隠された隠門のふたつがある。正門にとりついた兵を隠門から飛び出して背後を突く仕組みだ。このほかにも見どころは豊富。
イベント
松山春まつり
毎年4月の第1金・土・日曜日に開催。
昭和42年より、松山城小天守の再建の決定を祝うイベントとして始められた。
大名武者行列や愛媛県の代表的な座敷歌「伊予節」を披露する催し物などを中心に繰り広げられる春恒例のまつりだ。
松山城
国重要文化財 天守、乾櫓など櫓6棟、戸無門など門7棟、塀7棟
別名 勝山城 金亀城
分類 平山城
築城主 加藤嘉明、蒲生忠知
主な城主 加藤氏、蒲生氏、松平氏
愛媛県松山市丸之内1
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