前田利家は金銀の計算高かったが妻まつは正反対の考えだった

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前田利家名言集(亜相公御夜話)

ともかく金を持てば、人も世の中もおそろしく思わぬものだ。逆に一文なしになれば、世の中もおそろしいものである。
前田利家(亜相公御夜話)

亜相公とは前田利家のこと。利家使用の算盤が現存する。金銀、米の石高から兵員数まで計算した。幅三寸(約9センチ)、長さ七寸(約21センチ)ばかりのこの算盤を、いつも具足びつに入れていた。

利家は非常に計算高かった。いや織田信長を見習って、急伸する貨幣社会に素早く対応した経済感覚に優れた武将だったともいえる。

『亜相公御夜話』に、こんな逸話も出ている。慶長元年(1596)、京都を直下型の大地震が襲い、伏見城は壊滅的な大被害に見舞われた。当然、前田家も被災し、長男の利長が指揮して地震小屋が造られた。利家が呼ばれて行って見ると、想像以上に立派なものだった。利家は気に食わなかった。そこで帰宅してから家臣を走らせ利長に注意した。

「地震小屋などというものは、いかにも軽々と過ちないようにすればよいものだ。そのような立派なものは、睾丸の銀薄といって、いらぬもの。金銀をむやみに使えば、とんでもない無理となり、人のものを欲しがるようになる。金銀をたくさん持っていれば、山が崩れようが、海が埋まろうが、驚かぬものである。利長はすでに一国の主なのだから、何事ももらさず心に掛けよ」と申し送ったのである。

ところで、金銀にこだわる利家を、妻まつは快く思っていなかった。越中の佐々成政の大軍に、天正十二年(1584)、末森城(石川県宝達志水町)が包囲された。利家は成政に三度敗れており、もう負けられなかった。

出陣しようと、利家が玄関で具足をつけているところに、まつが奥から現れる。金蔵から取り出した金子の入った菖蒲皮の袋と、金銀を詰めたなめし革の袋を、ボーンと利家のもとに投げつけた。

「金銀を蓄えるより、佐々殿を打ち負かす人数こそ先決でしょう。でも今からでは、人数集めはもう手遅れです。せめてこの金銀を召し連れなさって、槍でもお突かせになったらいかがでございます」

二人は仲のよい夫婦だったが、まつは金銀の蓄財より、これで兵を雇うのが先決とかねてから信じており、この点で大いに不満だったのだ。これに利家は「出陣の門出を祝うのが妻たるもの。お前こそ敵だ」と刀を抜いてまつに斬りかかろうとするのを、周囲がやっととめた。この妻の荒療治が効いたのであろう、利家は成政との戦いに勝利した。


天下分け目の決戦であっさりと大恩人を裏切る
冷酷度4
腹黒度4
変態度4
鬼畜度4
善人といったイメージの強い前田利家だが、彼が律儀に忠義を尽くしたのは豊臣秀吉だけ。それ以前の生き様を見れば、とても律儀者とは言い難い。

また、秀吉に対して忠義を尽くしたのも、天下の情勢がほぼ確定してからのことである。つまり、忠義というよりは保身といった意味合いのほうが強かったのかもしれない。

まず、彼が秀吉の配下となったのは、秀吉と柴田勝家が天下分け目の決戦をおこなった賎ヶ岳合戦の直後。織田家中での利家は、北陸方面の攻略を担当する軍団長で柴田勝家の指揮下にあり、彼の領地も勝家の居城である北ノ庄城近くにあった。

その経緯から、本能寺の変後に勝家と秀吉の後継争いがおこると、彼は勝家に味方して戦った。確かに秀吉とは若い頃から親交はあった。しかし、勝家との絆はそれ以上に深い。

もともとが暴れん坊だった利家は、猛将の勝家とはウマが合ったようで、若い頃から目をかけて可愛がってもらったという。利家は信長の側近だった茶坊主を斬り殺し、一時、逃亡して浪人した時期があった。

この時、利家の織田家中への復帰のため世話を焼いてくれたのが勝家。いわば恩人である。利家もこれに感謝して、以来、勝家のことを「親父殿」と呼んでいた。

そんな大恩ある人、父として慕った勝家を、この男はあっさり裏切った。賎ヶ岳合戦は、両軍の長い対陣の後、秀吉が大垣方面に主力を移動させた陽動作戦に引っかかり、佐久間盛政が突出して戦端が開かれた。

当初は佐久間軍の猛攻で秀吉軍は防戦一方。ところが、秀吉の主力が予想外に早く戦線に復帰したことで形勢逆転。このタイミングで、柴田軍の一翼を担っていた利家は、突加として戦線離脱。越前方面へ撤退してしまった。このため柴田軍は混乱して、秀吉軍の猛攻をささえきれず崩壊。全軍が敗走することになる。


前田家の家督を継げたのは兄や甥を裏切ったから
利家の敵前逃亡が、柴田軍の大きな敗因のひとつになったのは間違いない。これだけでも大きな裏切り行為である。この後、利家は秀吉にすんなり降伏すると、本領を安堵されたばかりでなく大幅な加増をうける。この厚遇ぶりを見ると、事前に裏切りの密約があった可能性は高い。

また、勝家は彼の背信行為を咎めもせずに、人質として預かっていた彼の三女を処断することなく無傷で送り返すという男気のあるところを見せた。にもかかわらず、利家は、秀吉に降伏するとすぐに、その先鋒として北ノ庄城に龍城する勝家を攻撃している。これが律儀者といわれた男のする事か?

実際、利家の裏切りはこれだけではない。前田家の家督相続もまた、なかなか卑怯な経緯がある。 父の利昌は荒子城という小城に君臨する城主。しかし、四男に生まれた利家に相続権はなく、家督は長男の利久が相続。利家は独立して領主の織田家に仕官、信長の側近として働いていた。

利久には実子がなかったが、織田家重臣の滝川一益の縁者を養子にとり、家督を継がせることも決まっていた。ちなみにこの養子が戦国一の傾奇者として勇名な前田慶次である。

この状況では利家に家督を相続する目はない。ところが前田家の家督は利家に相続させるように。突然信長から横やりが入った。これには利久も従うしかなく、養子の慶次を廃嫡して跡目を利家に譲ることにした。

利家は信長が大うつけと呼ばれていた頃、その取り巻きのひとりで、信長とは同性愛の関係でもあったことから何かしら利家による画策もあったのではないだろうか。

また家督を相続すると旧領主の兄・利久と廃嫡された慶次を荒子城から追い出している。しかしさすがに後味の悪さを感じたか、大名となってからはこの兄と慶次に領地を与えた。だが慶次はこの裏切り行為をよほど恨みに思っていたようで、寒い雪の日に利家を騙して水風呂に入れ、復讐を遂げて出奔している。
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