大名でも一国一城令および武家諸法度で城を勝手に建てられなかった

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城は自由に建てられなかった

江戸時代、領主は一国の主でありながら、自由に城を建てることはできなかった。徳川幕府によって厳しく取り締まられたからだ。

1615(元和元)年、一国一城令および武家諸法度が公布された。一国一城令は、居場となる城以外は廃城にするというものだ。武家諸法度は全13箇条からなり、大名の遵守すべきことや大名の国政などについて規定している。

そのなかで城郭については、「新規ノ城郭構営ハ竪クコレヲ禁止ス。居城ノ陸塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ」とある。
つまり、「新たに築城することは厳禁。居城の石塁や石壁が壊れ、修理をするときは奉行所に申し出て許可を受けてからにすること」ということだ。

違反した場合は当然のことながら処分が下された。実際に処罰された大名では、安芸広島藩主の福島正則が有名だ。関ケ原の戦いで功をあげた福島は、戦のあとに安芸広島と備後49万8200石の大封(広大な領地)を得る。しかし、1619(元和5)年、台風により壊れた広島城の一部を修繕したことが幕府にとがめられたのだ。

福島が修繕願いを出していたにもかかわらず、2カ月も音沙汰なしだったというから、もともと幕府ににらまれていたという説もある。

しかし処分に容赦はなく、安芸備後50万石を没収され、津軽への転封(領地替え)を命じられた。ちなみに、最後は信濃高井野で没している。

一方、幕府から築城を許可された場合でも、目立つ天守をつくるととがめられると考えたのか、いまも天守台だけが残る城もある。大名は、領主とはいえ城を自由に修理することもできず、幕府に目を付けられないようにびくびくしていたのだ。



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