黒田官兵衛は軍師として竹中半兵衛と真逆の考えだった

更新日:

黒田官兵衛

戦術9
知力10
政治力10
忠誠心5
運3

自分を活かしてくれる大将との出会い
1.黒田官兵衛はもともと、西播磨の小大名・小寺政職に仕えていた。早くから織田信長の将来性を見抜き、家中を説得してその傘下に入る。

羽柴(豊臣) 秀吉が中国方面担当の司令官として播磨に進駐すると、居城の姫路城を前線基地として秀吉に提供してしまう。また、土地の事情に疎い秀吉に代わって、播磨の有力勢力を次々に調略してまわる。

これでは、まるで誰の家臣なのか解らない。小寺家中では、官兵衛に対する批判が日増しに強くなった。 あるいは、この時すでに官兵衛は主君を見限っていたのかもしれない。大名としての実力と個人としての能力、どちらも小寺政職は秀吉の足下にも及ばない。

弱小の土豪でしかない官兵衛が乱世を生き抜いて功名を成すには、有力な大名に仕えるしか道はない。知謀をもって主君を補佐する「軍師」という言葉、当時はあまり一般的ではなかったという。しかし、官兵衛が目指した仕事は、現代の我々がイメージする軍師そのものだ。

そして、軍師として大成するには、まず優れた大将に仕えること。官兵衛の能力を理解して、最適の働き場所を与えてくれる人物。また、あうんの呼吸でお互いの意図を理解できる相性の良さも必要だろう。

秀吉には、官兵衛が大将に求めるすべてがあった。幼い頃から武芸よりも書を読むことを好み、『孫子』の兵法も熟読している。30歳を過ぎてやっと、その知識を駆使できる立場を得ることができた。


話術を駆使した調略と入念な仕掛けが真骨頂
2.当時、秀吉のもとには竹中半兵衛という軍師がいた。その知謀は諸国に知れ渡っており、織田軍団の中国方面軍総参謀長といったところだろうか。新人参謀の官兵衛とは立場的にも雲泥の差がある。

しかし、半兵衛は官兵衛のことを気に入って、二人は厚い親交を結ぶようになる。半兵衛は大将・秀吉とのつきあい方や軍師の心構えなどを親身になって語って聞かせている。美作や備中方面への侵攻作戦では、二人の軍師が共闘して大きな戦果も挙げている。

この戦いを通じて、官兵衛の力量も高く評価されるようになる。二人の軍師は「二兵衛」なる通称で呼ばれ、伝説の軍師と並んで称せられるほどに官兵衛の株は急上昇。また、戦いを通じて二人の幹もさらに深まる

天正六年(1578) 信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため、官兵衛は摂津有岡城に向かったが、そこで捕えられて一年以上にも渡る苦しい幽閉生活を体験した。

信長は官兵衛が裏切って敵方に与したと勘違いして、人質として長浜城で預かっていた官兵衛の嫡子・松寿丸(後の黒田長政)を処刑するよう命令。しかし、半兵衛が機転をきかせて匿ったために松寿丸の命は救われた。恐ろしい信長に逆らってまで我が子を守ってくれた半兵衛に、官兵衛は生涯感謝し続けたという。 友情厚い二人ではある。が、軍師としての仕事ぶりにはかなりの違いがあった。

半兵衛のやり方は意外と正攻法。しかし、官兵衛はこれとは真逆である。戦いの前から周到 な策を弄する。

天正九年(1582)に鳥取城を兵糧攻めした時も、その前年に商人を鳥取城下に派遣して米を買い漁らせ、城内への食料の備蓄を阻止。兵糧攻めの効果を高める作戦を実行している。

また、調略に関しては半兵衛も遥かに敵わない。特に包囲した城を降伏させる説得には定評 がある。敵の心の動きを敏感に察知して、絶妙のタイミングで開城を要求。

また、有岡城に幽閉されて苦労した後は、敗者の側の心理にも精通。爽やかな弁舌を駆使しながら相手のプライドを満足させて、降伏を納得させる。それはもう名人芸の域だった。

目先の合戦で戦術を考える軍師は数多くいる。しかし、官兵衛の知謀はその先のレベル、最終目的を設定して、そこに到達するまでの戦略を練ることのできる数少ない軍師だった。備中高松城を水攻めしている最中、本能寺の変が勃発して信長が暗殺される。この時、「これで、天下はあなたのものです」と、官兵衛は秀吉に耳打ちした。

突然の事態に秀吉をはじめ誰もが茫然自失となっている時、官兵衛だけは事態を冷静に分析して、ここが秀吉の天下獲りの好機だと判断する。そして、毛利氏との停戦交渉をまとめ、「中国大返し」と呼ばれる記録的なスピードで畿内へ侵攻する行軍スケジュールを作成。秀吉の天下獲りのために必要な手はずを次々に整えた。


黒田如水名言集(黒田如水教諭)

大将たる人は、威厳というものがなくては、万人を押さえることができぬ。さりながら、悪く心得て、威張ってみせ、下を押さえ込もうとするのは、かえって大きな害である。
黒田如水(黒田如水教諭)

3.黒田如水、通称は官兵衛、いみなを孝高という。如水は出家剃髪しての名である。信長、秀吉、家康の三英雄の時代に、自らもまた天下人になる夢を抱いた武将だった。

文武両道に秀でた逸材で、天下を取れる器量はあったが、その大胆にして綴密、明断な頭脳が、逆に秀吉や家康の警戒心をあおって、「恐るべき策士家」「警戒すべき野心家」と見られて、遠ざけられ、天下を狙う機会を失った。

如水はしかし、誠意と正義に満ちた武将だったといえる。天正六年(1578)に、有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重が信長に背いた。秀吉のもとにあった如水は、村重と旧知の仲だったことから単身、有岡城に乗り込んで説得したが、逆に勾留されて牢屋にぶち込まれた。

翌年、有岡城を信長が攻略して、如水は劣悪な環境の牢から救出された。だが膝をやられて、生涯、足を引きずるようになった。この事件は如水が信念の人であり、強い意志と正義感の持ち主であることを示した。

知水は秀吉の軍師として、秀吉の天下取りをそばで支え、また指南した。 彼は政権の中枢にあって、「見るべきものを見つくした」武将であった。

冒頭の言葉は、子孫に遺した訓戒の一節だが、この言葉にはさらに続きがある。 「ただ諸人に恐れられることを威厳だと心得て、家老に会っても威丈高になり、何でもないことに目をいからせ、言葉を荒立て、人の諌めを聞かず、自分に非がある時も偉そうに人を見下してごまかして逃れるといった」

自分勝手な振る舞いをすれば、家老も自然と身を引くようになり、諌めなくなってしまう。家老さえ、このごとくなれば、まして諸士以下末々に至るまで、ただおじけ恐れてしまい、忠義の思いをなす者もいなくなり、自分の身をかばって一生懸命に奉公しなくなってしまう。

このように高慢で、人をないがしろにすれば、臣下万民は主君を疎んで、その結果、必ず家を失い、間違いなく国も滅ぶものであるから、この点、よく心すべきである。

真の威というものは、まず自分の行儀を正しくし、理非賞罰を明確にすればよい。人を叱り、脅すことをしなくても、臣下万民は主君を敬い、畏怖して、上をあなどり、法を疎かにする者もなくなる。そうなれば、自ずから威厳は備わるものだ」と、如水は言い残した。

信長の野望を挫いた本能寺の変もじつは黒田官兵衛が黒幕か?
冷酷度4
腹黒度5
変態度1
鬼畜度1
同じ戦国時代屈指の名軍師と呼ばれながら、竹中半兵衛と黒田官兵衛が大きく違う点。それは野望の有無である。半兵衛が無欲の人だったのに対して、官兵衛は戦国武将の中でも山っ気と野望の強さは群を抜いた存在。油断すると、すぐ寝首を掻かれそうな怖さがあった。

秀吉が天下人となり多くの功労者が大領を得たが、なぜか一番の功労者ともいうべき官兵衛は、辺地の九州豊前に12万石を与えられただけ。ある人が秀吉に「官兵衛にもう少し領地を与えては?」と言ったところ、「あやつにそんな領地を与えたら、ワシの天下が危うくなるわ!」と、一喝したという。

秀吉が官兵衛を警戒するのは理由があった。備中高松城攻めの陣中で、本能寺の変の勃発を知らされた時、秀吉をはじめ幕僚たちはあまりのショックに茫然自失。

しかし、官兵衛だけは目を輝かせて、「ヒヒヒッ…今が天下を獲る好機ですぞ」秀吉の耳元で囁いたという。この言葉で秀吉も冷静さを取り戻し、すみやかに毛利氏との和議を成立させて中国の大返しに成功。明智光秀を破り信長の後継者としての地位を不動にした。

しかし、官兵衛に感謝するどころか、あの局面でそんなことを考えられる冷静さと非情さを恐れた。

また、本能寺の変については、官兵衛が黒幕ではないかという説もある。彼が秀吉をそそのかして、信長に援軍を要請するよう進言したというのだ。落城する前の備中高松城、その仕上げを信長にやらせていいトコ取りさせようというのである。このゴマスリで自分の株はまたあがると、秀吉はその策に乗った。

しかし、これには裏がある。この時期、信長の部下は各地を攻めており、援軍として動かせるのは明智光秀の軍団しかない。光秀の信長への恨みの深さを知っていた官兵衛は、謀反を進言して間接的に信長を謀殺。その後、秀吉に光秀を討たせて口を塞いだという。

この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!
ナビ
Page Top