北信愛は中央からは辺境の東北で目立ちにいくいけど血脈と資質に恵まれていた

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北信愛

戦術6
知力9
政治力8
忠誠心7
運9

血脈は申し分なく資質にも恵まれていた
1. 戦国史ファンにも、あまり聞き慣れない名の武将である。中央から見れば、当時は辺境である南部地方(岩手県と青森県太平洋岸)に割拠した北氏が出自。北氏はもともと南部氏の一族と伝えられるが、系図は不明の点が多い。

信愛の父である北致愛は、南部氏の当主である南部信義の嫡男に生まれたが、母方の生家である北氏の養子に出され、家督を相続することができなかった。先祖の素性については不明な部分が多いが、致愛の息子である信愛には南部一族の血が間違いなく流れている。

血脈は申し分なく、また、資質にも恵まれていたのだろう。父の死後、遺領を相続して剣吉城(三戸郡南部町)の城主となった信愛は、南部氏の重臣として重用される。

この頃、南部家中には跡目争いで不穏な空気が充満していた。当主・晴政に嫡子がなく親族の信直を養嗣子に迎えていたが、やがて実子の晴継が生まれたことで家中は晴継派と信直派に分かれて争うようになる。

晴政の死後、重臣の九戸政実が推す晴継の家督相続が決定。信直派に属した信愛は逆風に立たされることになるが跡目を継いだばかりの晴継が、何者かに暗殺されてしまう。そして、一度は跡目の夢を断たれた南部信直と信愛に再びチャンスが到来する。

しかし、九戸政実は前当主の婿である九戸実親を擁立し、あくまで信直の家督相続を阻もうとした。 重臣会議で信愛は熱弁をふるい、信直の相続の正当性を主張する。裏では有力家臣の切り崩しを画策、さらに、遠く畿内まで旅して織田信長にも面談している。日本最大の勢力となった織田氏と同盟して、外側から敵陣営に揺さぶりをかけようという戦術である。

本能寺の変の勃発により信長との同盟は水泡に帰したが、速く畿内の勢力まで利用しようという視野の広さ、行動力と外交的センスなどは、この当時の奥州の武将には珍しい



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